鎌倉仏教の新しい動き

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平安時代に立宗された天台宗や真言宗をはじめ、それ以前の仏教においても、山岳における厳しい修行により悟りの世界に入ろうとした。一般民衆は厳しい修行がなされている山岳を、遠くから拝することによって仏の加護を得ようとした。これに対して、浄土宗の祖である法然は比叡山を降りて、京都の市井において「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えさえすれば往生できることを主張した。浄土真宗の祖となった親鸞も比叡山を降り、法然のもとに参じたのちに、念仏を唱えれば、善人でさえ往生できるのであるから、まして阿弥陀如来は、自分は悪人であると自覚して念仏する悪人こそ、真っ先に救済するはずである、という「悪人正機(あくにんしょうき)」説を唱えるほどに、その救済の論理を純化した。こうした念仏信仰の中から時宗の祖となった一遍は、踊り念仏によって救われることを、遊行(ゆうぎょう)(旅)を通じて唱えて歩いた。曹洞禅宗の祖の道元は修(=坐禅)はすなわち証(=悟り)であるとし、「只管打坐(しかんたざ)」(ただひたすら坐禅すること)を主張した。日蓮は多くの経典の中から法華経を選んだが、人びとが法華経八巻を読誦することは不可能であるとし、その題名=題目を「南無妙法蓮華経」と唱えさえすれば、救済されることを強調したのである。
 念仏系としては浄土宗・浄土真宗・時宗、禅宗系では臨済宗・曹洞宗、法華系では日蓮宗がいずれも鎌倉時代に立宗されたが、これら各宗祖の共通する部分は選択(せんじゃく)(多くの経典や修行方法から一つだけを選びとる)・易行(いぎょう)(易しいだれにでもできる行)・専修(せんじゅ)(選択したことを専一に行なう)である。これらの宗祖たちは、いずれも比叡山を降りて独自の道を歩んだが、鎌倉時代に立宗されたことから鎌倉新仏教と称されるが、これら新仏教の影響を受けて天台・真言両宗をはじめとするいわゆる旧仏教にも新しい動きがみられ、内部から改革を図ろうとした人びとも少なくなかった。このように新しい動きをみせた仏教界全体を「鎌倉仏教」と称する。それまでの多くの民衆にとっての仏教は、遠くから山岳に向って拝するものであったのに対して、身近で接することができ、みずから行ずることができるものとなったのである。この石下地域にも、親鸞およびその門弟たちの活動がみられ、鎌倉仏教の新風が吹き込んできたのである。