親鸞の東国入国

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親鸞は比叡山で出家し、二九歳まで修行したが、山を降りて京都吉水の法然のもとに参じた。しかし、法然の門弟で後鳥羽上皇の女房(女官)と密通事件を起こした者があり、法然の活動に批判的であった旧仏教側からの攻撃を防ぎきれずに法然は土佐へ流罪となり、親鸞も連座して越後国府(直江津市)に流された。三五歳の時であった。
 四年後の建暦元年(一三一一)十一月十七日に赦免されたが、京都には帰らなかった。翌建暦二年正月二十五日には、師法然が京都大谷の山上で死去したこともあってか、親鸞はその二年後の建保二年(一二一四)には、越後を発って東国へと向った。越後に居住する間に恵信尼と結婚して子供をもうけている。俗世間で生活をしながら念仏をつづけ、煩悩具足(ぼんのうぐそく)(煩悩をもったまま)のまま往生を遂げるというのが親鸞の主張であった。
 

Ⅱ-2図 越後から常陸へ向う親鸞
(光明寺本「親鸞伝絵」より)

 親鸞の関東移住の理由については、さまざまな理由が挙げられている。一つには、妻子を連れての移住であるから、経済的な基盤のある場所への移住であったはずであるとし、それは妻恵心尼の実家である三善氏の所領が常陸にも存在し、それを頼っての移住ではなかったかとする。これは一考するに価しよう。二つには親鸞が越後に居住していた時のその近辺と同じ地名が常陸にもみられることから、当時も越後あたりからの移民が行なわれており、そのルートにそって親鸞も移住したとする。しかし、移民は近世中葉以降のことであり、しかも、似たような地名は全国各地にあり、その一致だけの推論は困難といえよう。三つには、浄土信仰が関東で盛んであったことによるという説である。この説がもっとも説得力のある説のようである。宇都宮氏は早くから浄土信仰を受容していたが、とくに、頼綱は「蓮生」という法名を名乗り、京都において法然の高弟、すなわち親鸞とは兄弟弟子となる証空(西山上人)に帰依し、証空の住んでいた京都西山の善峰堂や往生院(のちの三鈷寺)の復興に努めた人物で、熱心な浄土教信者として知られている。なお、鎌倉末期の弘安六年(一二八三)に制定された同氏の家訓である「宇都宮弘安式条」にも、二荒山神社や神宮寺とともに、この京都西山の善峰堂や往生院の修理等に関する規定がみられるほど、同氏にとって重要視された寺院であった。
 

Ⅱ-3図 宇都宮氏略系図・浄土系法系図

 この頼綱(蓮生)の弟である朝業は、塩谷氏の祖となった人物であるが、彼も浄土宗に帰依し、出家して信生と名乗っている。この朝業の子が、笠間時朝であった。
 親鸞が東国に入国してのちに活動の拠点としたのが稲田の草庵であった。親鸞が稲田で布教中の在地の領主が笠間時朝であったのである。親鸞が法然やその弟子の証空と因縁深く、熱心な浄土教信者である宇都宮氏や塩谷・笠間氏等のいた東国をめざしたのは、むしろ当然のことといえよう。