善光寺信仰と親鸞

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さらに、親鸞の関東入国と布教活動に関する最近の学説が、いま一つある。川崎千鶴氏によれば、親鸞は信州の善光寺の勧進聖(寄進を募り歩く僧侶)の一人として関東に赴いたというものである。治承三年(一一七九)に善光寺が炎上すると、文治三年(一一八七)七月に源頼朝は信濃国の御家人に対し、その造営のために勧進(かんじん)上人に与力し、土木の人夫を出すように命じている。善光寺も勧進聖を信濃国内はもちろんのこと国外へも派遣して、同寺の復興を図ったものと考えられる。文永五年(一二六八)、正和二年(一三一三)、文和三年(一三五四)にも火災により焼失しており、そのたびに勧進聖たちが関東を中心に活動したに相違ない。この善光寺の勧進聖たちの活動は善光寺阿弥陀仏への信仰を盛んにしていく結果となり、善光寺阿弥陀三尊像の模像が各地に作製されるようになっていった。善光寺式阿弥陀三尊仏は一光三尊仏といって一つの光背の前に三尊仏が立つという形式の仏像である。一光三尊の善光寺式阿弥陀三尊仏は全国に分布するが、とくに関東・東北地方に多く、善光寺阿弥陀信仰が盛んであったことを物語っている。高田の専修寺(せんじゅじ)(栃木県二宮町)には親鸞が善光寺仏を納めた笈(おい)を背おって高田に至り、如来堂に安置したという寺伝がある(『真岡市史』六、原始古代中世通史編)。専修寺の二世は親鸞の高弟真仏であり、いわゆる高田門徒として、親鸞門下では有力門下で知られる門派であった。親鸞が確実に善光寺の勧進聖であったかどうかは不明であるが、彼が善光寺信仰や勧進聖の活動のルートに乗って、布教活動を行なったことは否定できないようである。
 

Ⅱ-4図 親鸞の布教関係図

 親鸞は常陸に入る前に「さぬき」というところに留っている。親鸞の妻恵信尼(えしんに)が娘に出した手紙の中で約五〇年前を思い出して、親鸞は「武蔵国であったろうか、上野の国であったろうか、佐貫という所で(迷いが生じ、念仏だけに頼れず、経を)読みはじめて、四、五日して、思いなおして止めて、常陸へ向った」(「恵信尼消息」)と記している。この「さぬき」は群馬県邑楽郡明和村の佐貫であるといわれているが、中世の佐貫荘は、利根川と渡瀬川の合流する三角地点にあたる一帯であったと考えられる。恵信尼が武蔵国であるか上野国であるかがはっきりしないといっているのは、約五〇年も前のことであるということもあるが、この地点は洪水により常に川筋が変化している所であり、川の流れ方によっては武蔵国になったり上野国になったりするような所であったためもあろう。
 なお、明和村の東に板倉(板倉町)という所があるが、同所も中世には当然佐貫荘であったが、この板倉に宝福寺という真言宗寺院があるが、同寺から親鸞の高弟性信の座像が発見され、その像の銘文によれば、同寺は法福寺という真宗寺院であったことが判明し、「さぬき」とは、この板倉あたりとする説が有力となってきた。
 いずれにしても、親鸞とその家族が越後国から信濃国を通り、利根川に沿って東へ向ってきて佐貫に至ったのであろうことが考えられるが、佐貫よりも上流の対岸に位置するところに埼玉県大里郡妻沼町がある。同町内の歓喜寺・福寿院・能護寺(いずれも真言宗であるが)などに一光三尊仏を刻んだ板碑が五基も存在し、他地域に比べて圧倒的多数を占めているところである(千々和実『武蔵国板碑集録』三)。これは善光寺信仰が利根川ぞいのこのあたりに盛んであったことを物語っているといえよう。このような所に留っているところをみると、親鸞が善光寺仏を背う勧進聖である、あるいは善光寺信仰のルートにそって関東に来て、布教活動を行なったという説がより一層、信憑性を帯びてくるのである。なお、石下地域の近くでは、室町期の作とされる善光寺式阿弥陀三尊像(光背と脇侍の台座が失われているが)が、下妻市高道祖の常願寺にある(『下妻市史』)。
 

Ⅱ-5図 善光寺式阿弥陀三尊像(豊田中央公民館,江戸期)