親鸞の布教活動

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佐貫に留った親鸞は、やはりのちに恵信尼が娘に与えた手紙によると「常陸の下妻のさかいの郷というところ」(「恵信尼消息」)に留っていることが知られる。彼女はここで夢をみたというのである。それは、真ん中の仏の顔はよくわからなかったが(実は阿弥陀如来)、その脇侍の勢至菩薩は法然であり、観音菩薩の方は親鸞であったという。彼女はこれ以降、夫の親鸞をなみたいていの人物ではない、と思うようになったというのである。この恵信尼の手紙により下妻の幸井(坂井)郷に居たことがはっきりするが、下妻市内には、親鸞が居住したという小島の草庵跡と称する場所がある。覚如が永仁三年(一二九五)に書いた「親鸞伝絵」では越後から笠間郡稲田郷に移っており、下妻小島の地名は出ていないが、顕誓が永禄十年(一五六七)に著述した「反故裏書(ほごうらがき)」に下妻の小島に三年居住したことが記され、それ以降は、小島の三月寺に三年間居住したという説なども出てきており、室町末期には、小島の草庵あるいは三月寺に三年間居住したということは、かなり事実として知られていたことが理解される。さて、これが事実であったかどうかということであるが、いずれにしても下妻幸井(坂井)郷にいたことははっきりしているので、この下妻周辺に一定の期間、居住したことが知られるし、それは、つねに親鸞につき従っていた蓮位房が下妻出身であり、小島に居住し光明寺(現下妻市)の開山となっている明空や近くの新堤(現八千代町)に居住した信楽などが、門弟となっていることからもうかがえよう。
 親鸞が関東での布教活動をやめて京都に赴くのは文暦元年(一二三四)前後といわれている。幕府が文暦二年七月二十四日に念仏禁止の宣下を朝廷に求めているが、これを機会に住みなれた東国をあとにしたともいわれている。親鸞の東国での活動は二〇年間におよぶが、この間の中心的な拠点は稲田であった。下妻や蔵持(石下町)あたりへの布教も、あるいは稲田から時折やって来てのものであったのかも知れない。四二歳から六三歳ごろまでの約二〇年間に、門徒の数は一万人とも一万五〇〇〇人以上ともいわれる。そのような中で、各地に信仰を同じくする人々の集団が成立していった。それらの集団の中心的人物が、親鸞に直接教えを受けた面授の弟子たちであった。その面授の弟子は「親鸞門侶交名帳」によれば四八人になる。そのうち、下野国七人、常陸国二〇人、下総国三人、奥州国七人、武蔵国一人、越後国一人、遠江国一人、京都七人、不明一人で、常陸・下総・下野の関東北東部で三〇人にも達し、圧倒的多数を占めている。活動の中心が、これらの地域であったことが、このことからも知られる。面授の弟子の中でも順信が鹿島、性信が下総国横曾根(よこそね)(現水海道市)、真仏および顕智が下野国高田(現二宮町)に活動し、それぞれ鹿島門徒、横曾根門徒、高田門徒と称されるほどの集団となっていったのである。また、真仏の弟子の光信が武蔵国荒木に活動し、荒木門徒と称されるほどの発展を遂げている。
 

Ⅱ-6図 親鸞門侶交名牒(下妻市 光明寺蔵)

 親鸞の門人やその門徒の中には笠間の稲田九郎(「親鸞門侶交名帳」)や、大番役のために京に上った「しむの入道」「正念房」(建長八年<推定>九月七日付「親鸞消息」)というような武士もいたであろうが、自らが撰述した「唯信鈔文意」や「一念多念文意」の巻末に「田舎の人々は文字もよく理解せず、あさましき愚痴きわまりない人々なので、心ある人のそしりをかえりみず、同じことを、くり返しくり返し書き記した」と書いているように、文字もよく理解しないような田舎の人びとであり、土地の領家、地頭、名主から念仏を禁止されるような人びと(建長二年<推定>九月二日付「親鸞消息」)、すなわち、かれらに支配されていたような農民たちが多かったのではないかと思われる。