願牛寺の伝説

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蔵持には現在寺院跡しか残っていないが、数十年前まで、大高山証誠院願牛寺という浄土真宗の寺院があった。同寺所蔵の古文書・絵画等の史料は、現在、同じ宗派の妙安寺(岩井市三村(みむら))に保存されている。江戸期に画かれた三幅の「大高山願牛寺全景図」によれば、かなり立派な伽藍であったようである。「大高山願牛寺縁起」によれば、親鸞は越後から関東に向う際に同行していた蓮位房の勧めに従い、下総国岡田郡の城主稲葉伊予守勝重のもとに立寄る。蓮位房と勝重は従弟の関係にあたるというのである。勝重は親鸞の弟子となり一心房と称したという。一心房が親鸞に坊舎を建立するように頼み、建立がはじまると、どこからともなく牛が現れ、その作業の助力をし、終ると前の沼へ飛込んだが、そのあとには牛の形をした枯木が残っていただけであったという。これを牛木とよび、寺名を願牛寺とした。また親鸞は槙の彫舟を沼に浮べ、蓮を折り取り、一心房の妻にその蓮の糸で絵絹を織らせ、自ら阿弥陀の像を画き、願牛寺を一心房へ譲り、稲田へ隠居した。天正五年(一五七七)二月二十三日に兵火にかかり伽藍は焼失したが、阿弥陀の画像のみ、火中より飛び出し梢にかかっていたというのである。
 この寺伝によれば、当寺の開基は蓮位房の従弟の稲葉勝重という人物であり、のちの一心房ということになる。しかも稲葉氏はこのあたりの城の城主であったということになる。また勝重は蓮位房の従弟になるというが、この蓮位房は「親鸞門侶交名帳」に源頼政の孫と記されている人物で俗姓を兵庫頭宗重という。頼政の末子(あるいは孫)の頼茂の謀反に一味したといわれ、平家に討たれるところを親鸞に救われて弟子となった。蓮位房は「シモツマ」の出身といわれ、子孫は下間氏と称し、代々、本願寺の坊官となっている。また、蓮位房は小島草庵跡近くの三月寺に居住したことになっている(「本願寺通紀」)。いずれにしても、稲葉氏については不明な点が多いのである。
 「大高山願牛寺縁起」には、親鸞と雁島(がんじま)の説話も記されている。姥山というところの老女は五度嫁いだが、いずれの夫とも別れてしまった。そして六人目の猟師をしている夫とも不幸にして別れることになってしまった。このような女の身を悲しんでいたところ、親鸞に念仏による女人往生のことを説かれ、救われたので、その礼として、猟師の夫の雁を親鸞に差し出した。親鸞は小船に乗り、雁の足に島という字を書いて、念仏する者は何人でも救うという阿弥陀如来の本願が来世まで易らないものであるならば、この沼に島が浮び上るであろう、去来の際にはその島に足を休めるがよいといって、雁を放すと、島が浮上してきた。これによりこの島は雁島と称されるようになったというのである。
 この雁島に関しては、少し異る説話もある。親鸞が門弟たちと十五夜の月をみるために飯沼に槙の彫船を浮び出ていうには、この池中に小島が一つあれば風色はいっそう増すであろうと。翌十六日も月見をしようとして池上出ると、小島が浮んでいた。この話を聞いた渡辺周防という者が、これは親鸞の高徳の現れであるとして、飼っていた雁を親鸞に捧げた。親鸞はこの雁を島に放ち、自分の教える法が末世に盛んになるだろうことを誓い、毎年の往来にはこの島に来るようにと唱えた。以降、雁は毎年一〇日ばかり、この島に寄るというのである。
 なお、この説話は、やはり、もとは蔵持にあったという東弘寺(大房)にも伝えられている。東弘寺は親鸞直接の面授の弟子で、「門侶交名帳」では飯沼の北方の蕗田でも活動したことが記されている。善性が開創したという寺伝を持つ寺院である。雁島の説話は、おそらく、願牛寺や東弘寺を中心とした真宗門徒の活動の中で、生れてきたものと考えられる。