飯沼と親鸞門徒

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これらの伝説がどれほど信頼のおけるものかは疑問としなければならないが、いずれにしても蔵持の願牛寺(および東弘寺)が飯沼とそれに連なる沼池と深くかかわっていたことを物語っているといえよう。また、猟師の妻であった老女が登場することは、親鸞をはじめとするその門弟たちの布教の対象者が武士ばかりではなく、むしろ民衆であったことを示しているといえよう。
 

Ⅱ-7図 飯沼近辺浄土真宗関係図
(籠瀬良明「茨城県旧飯沼の景観」,『歴史手帖』14-12より作図)

 飯沼の周辺をみると、南に横曾根というところがあり、報恩寺がある。同地は横曾根門徒の中心人物で「親鸞門侶交名帳」には「飯沼」と付記されている性信が活動の拠点としたところである。
 また飯沼の北の方には新堤というところがある。ここは親鸞面授の弟子の信楽が活動したところであり、彼を開山とする弘徳寺がある。また、その近くの蕗田(ふきた)も面授の弟子である善性が拠点としたところである。飯沼からは少し西方になるが、一ノ谷沼のほとりには親鸞の弟子となった成然房(俗姓は中村行実と伝える)が開いたという妙安寺があった。なお、現在は同じような寺伝を持つ妙安寺が現在の境町一ノ谷と、岩井市三村にある。それに、いくども述べるが蔵持には願牛寺や東弘寺が存在したのであるから、飯沼を中心に親鸞の門弟たちが活動し、寺院を建立したことが知られるのである。
 これらのことから、親鸞およびその門弟たちは、飯沼の水上交通路を使って布教活動を行なったのであろうし、また、その門徒たちの多くは、飯沼を水上交通路として生活していた人びとや飯沼およびその周辺の沼池や田畑を生活の場としていた人びとであったと考えてよいのではなかろうか。
 飯沼周辺に五か寺の真宗寺院が存在したことから、親鸞の越後から常陸に入ったルートを古利根川、常陸川を下り、飯沼を北上して下妻へ出たのではないかという説(佐野俊正「飯沼と浄土真宗」、『歴史手帖』一四-一二)もあるが、常陸入国のルートはやはり、「恵信尼消息」が示す最短距離である上野国の佐貫荘を通り、おそらく古河から現在の八千代町あたりを通って下妻の坂井郷に着き、その後、稲田へ向ったとみるのが妥当ではなかろうか。ここは、親鸞が常陸に入国するルートとして飯沼を考えるのではなく、親鸞をはじめその門弟たちが活動し、門徒たちが多数存在した地域として把えた方がよいのではないかと思われる。なお、井上鋭夫氏によれば、原始真宗は川の民、海の民、山の民など「ワタリびと」の信仰によって担われていたとされるが、まさしくこのあたりの真宗門徒の中には利根川・常陸川を中心とし、その周辺の飯沼・釈迦沼・一ノ谷沼等の沼池周辺に居住し、水上交通と深くかかわりあった「ワタリびと」たちが、少なからず存在したことであろう。