中世の石造塔婆

198 ~ 201 / 1133ページ
中世の人々の信仰生活をかいま見る資料として、石で作られた塔婆類の存在が知られている。いわゆる、石塔類である。
 その形は、Ⅱ-14図に示したように様々な形式がある。これらは、死者の菩提を弔うための供養(追善供養)として、その縁者が建てる場合と、造立者が自らの死後の安穏を願って(逆修供養)建てる場合とがある。つまり、供養塔であって墓ではない。
 

Ⅱ-14図 石塔の種類図(『歴史散歩事典』)

 このような石造供養塔婆は、平安時代の末期ころから、仏教の普及、定着とともに全国的に普及し始め、中世の社会では人々の葬送儀礼の一環として一般化していた。
 もちろん、時代により地域により、その形式の選択や造立者の階層に様々な特色をもっているが、最も代表的なものは五輪塔と宝篋印塔、そして板碑である。
 町内に所在する中世の石造供養塔婆としては、五輪塔が七〇基余り、宝塔が二基、基礎部分のみの宝篋印塔が一基、無縫塔が一基、板碑が三二基ほど認められるという(昭和五十七年度茨城県史編さん室調査)。
 このうち、最も数の多い五輪塔は向石下の増田武三郎家墓地や蔵持公民館敷地内などにまとまって所在している。町の民俗資料館の玄関前にも蔵持の字石塔から出土した六基の五輪塔と数個の残欠が保存されている。
 いずれも、高さ五〇~六〇センチメートルと小型で、作られた時期を示す銘文などは刻まれていないが、様式的にみて室町時代のものであろう。
 宝塔は、全国的にみてもそう多い方ではなく、どちらかといえば特殊な形式の部類に入るが、町内には前述のとおり二基が所在している。
 一基は、国生の桑原大明神の境内に残るもので、四方に梵字を刻む塔身部のみを残している。茨城県史編さん室の調査では南北朝期と推定されている。他の一基は、向石下の法輪寺墓地に所在し、相輪部を欠失しているが、よく原形を止どめている。やはり、南北朝期にまでさかのぼる可能性をもつ姿である。
 宝篋印塔は、前述したとおり五輪塔とともに中世・近世をつうじて最もポピュラーな形式である。全国的にも、また、茨城県内でも多くをみることができる。しかしながら、石下町では中世と思われる事例は、若宮戸の石塚家に残る基部部分のみの一基が確認されているに過ぎない。より特殊な宝塔が二基も所在しているのに宝篋印塔がほとんどみられないのは不思議な現象といえるであろう。
 

Ⅱ-15図 五輪塔郡(蔵持公民館)


Ⅱ-16図 宝塔(国生 桑原神社)


Ⅱ-17図 宝塔(向石下 法輪寺)

 無縫塔は卵塔とも呼ばれ、禅宗僧侶の墓塔として造り始められ、後に他宗でも用いられたものである。やはり近世でも造られているので、時代を限らなければ相当数をみることができる。寺院墓地の歴代住職の墓にまとまって残存している例が多い。その様式は、塔身部が、より球体に似るほど年代が古いとされており、その観点から町内の無縫塔を概観してみるならば、豊田の龍心寺墓地に所在する一基が中世にまで遡る可能性があるものとして県史編さん室の調査で指摘されているが、該当する石塔は全くの球体であり、無縫塔本来の姿が球体ではないことから一考を要する資料である。