新政の崩壊と内乱の開始

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後醍醐天皇を中心に進められた建武の新政は、武家社会で培われてきた慣習や法令を軽視したため、多くの武士に不平・不満を抱かせた。ことに「御成敗式目」(貞永式目)五一か条のうち、第八条の御家人の所領についての規定と保護が無視される結果となった。この八条には、知行年紀の法は所領に対する権利をもっていても、その土地を二〇年間支配しなければ、その権利は無効であると定めている。これは逆に、その土地を二〇年間支配すれば、その権利を認めることを意味している。また、恩賞は公家側に厚く、武家側に薄かったことも見逃せない。
 こうした状況下にあって、建武二年(一三三五)、関東で北条高時の遺子時行が反乱(中先代の乱)を起したのを機に、足利尊氏はその討代を理由に、東国鎌倉に下った。尊氏自身、武家政治の再建をはかろうとしていたこともあって、後醍醐天皇はこの下向を認めなかったから、鎌倉に下ったことは新政府に反したことになる。
 翌三年(延元元、一三三六)正月、尊氏は鎌倉から入京しようとしたが、追撃してきた陸奥守・鎮守府将軍の北畠顕家と賀茂河原で対戦した。この戦いで、下総の結城朝祐、常陸の佐竹義篤・義春兄弟(夢窓疎石と佐竹貞義とのつながりは、貞義が禅宗に帰依した)は尊氏方につき、白河結城宗広・親朝父子は新田義貞の陣に加わった。尊氏方は敗れ、丹波から九州に逃れたが、同年五月、尊氏は東上し、摂津湊川(神戸市)の戦いで南朝側の楠木正成を戦死させ、十一月には入京をはたした。尊氏は光明天皇を擁立し、また建武式目を発布して当面の政治方針を明らかにした。一方、後醍醐天皇は十二月に、比叡山から吉野の山中に逃れたが、あくまでも皇位の正統を主張し続けた。ここに吉野の朝廷(南朝)と京都の朝廷(北朝)が両立し、これをめぐって全国的な戦いが展開された。
 暦応元年(延元三、一三三八)五月には、北畠顕家は和泉石津で、閏七月には新田義貞が越前藤島で戦死するなど、形勢は南朝側がすこぶる不利であった。こうした中、北畠親房は東北・関東・九州などで南朝側に加担する武士を糾合し、拠点を築いて、北朝側に対抗しようとした。東北の経営については、義良親王を奉じて親房の二男北畠顕信を陸奥守・鎮守府将軍に任じた。この計画の実現のため、建武五年(延元三、一三八八)九月初旬、親房、宗広を合せた一行は、伊勢大湊を奥州に向けて船出した。ところが暴風雨に遭い、各船とも散り散りになった。義良親王と顕家は吉野に戻れたが、親房は常陸東条浦に漂着、宗広も伊勢吹上浦に吹き戻され、吹上村光明寺で病没した。
 一方、北朝側では暦応元年(延元三、一三三八)八月、尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、弟直義と政務を分担して順調にみえた。しかし、尊氏の執事高師直の勢力と直義を支持する勢力との利害が対立した。観応元年(正平三、一三五〇)幕府は分裂し、直義派は高師直兄弟を殺害した。これを観応の擾乱(じょうらん)といい、この両派に南朝側の武士などの勢力の離合集散が繰り返され、内乱を複雑・長期化させたのである。