室町時代に入り、関東八か国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)に加え、甲斐・伊豆二国の管轄は幕府から委ねられた鎌倉公方が行なった。この鎌倉公方を頂点として相模国鎌倉に根拠地を置いた小幕府的権力機構を鎌倉府と呼ぶ。足利尊氏は南北朝内乱の中で武家政権を樹立する(一三三八)が、鎌倉の政治上の重要性には特に留意した。鎌倉幕府滅亡後も嫡弟直義や嫡男義詮を駐留させて北条氏残党や南朝勢力の集結・通過に備えている。貞和五年(一三四九)九月、尊氏は次子基氏を鎌倉に下向させ、在鎌倉の義詮を上京させた。基氏は初代鎌倉公方として府の運営の頂点に立ち、すでに鎌倉にあって足利氏を支えていた管領(かんれい)(執事ともいう。斯波家長・上杉憲顕・高師冬・同重茂・同師有・畠山国清などがいるが、貞治二年<一三六三>以後は上杉氏の世襲の職となる)とともに鎌倉幕府および室町幕府に似た組織で東国の支配に当った。なお、鎌倉公方は関東公方・鎌倉御所・鎌倉殿とも呼ばれ、基氏―氏満―満兼―持氏―成氏と相承されていった。
甲斐・伊豆二国を含む関東の一〇か国、そして時には陸奥・出羽に至る地域に、鎌倉公方の政治的支配は及ぶこともあり、公方の代を重ねるにつれて京都の幕府と並び立つ傾向も顕著になってきた。そもそも尊氏の政権内部には弟直義との派閥対立が観応元年(一三五〇)に顕在化し(観応の擾乱(じょうらん)、~観応三年)、やがて直義は殺された。室町幕府には当初より内抱する対立抗争の種子があり、鎌倉府とて幕府の下部機関でありながら、京都と鎌倉の公方相互の反目、そして鎌倉公方と管領上杉氏の対立も油断できない状況が現出した。このように鎌倉府の内外に存する対立抗争の因子は次項で述べるような一五世紀東国の内乱へと発展するのである。この時期の東国、そして常総野のいわゆる北関東地域の政治史が、鎌倉公方と在地領主との間の微妙な関係で進展することも見逃せない。
このような緊張関係を鎌倉府体制というにしても、在地領主豊田氏の動向を、この体制の中で把えることは全く困難である(『茨城県史中世編』でも全く言及していない)。しばし豊田氏領域の周囲に目を転じながら、時局の展開を眺めることにする。
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