古河公方と領主支配

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古河公方の成立によって北関東に新たな政治支配がみられたかどうかは難しい問題である。幕府―鎌倉府体制を基本とする一四~一五世紀の武家政権ではあるが、「京都御扶持衆」「鎌倉奉公衆」などの変則的勢力構図にもみられる如く、所詮は在地領主としての自立如何が氏族の将来を左右したのである。古河公方とて「御料所」という直轄領の経営に専念はするが経営の主体は各地の領主層であった。ただ彼等領主層を公方権力との間にどう位置付けるかが公方の権威とともに運命を決する要因だったのである。奉公衆とて人身的に完全な隷属をしているわけでもなく、彼の所領の全てが公方の経営下に属するわけでもなかった。古河に移座した成氏は、旧来の公方権力の蓄積を人的にかつ所領経営的に継承することを主眼にして、あるいは新たな権力の拡大を図ったのである。この意味では、古河公方は諸領主にとって武家社会の象徴的権威保持者であり得たのである。
 

Ⅲ-8図 古河公方足利高基書状(下妻市 円福寺蔵)

 在地領主豊田氏支配下の、この石下町域への公方権力の侵透はどうであったのかは次節で述べるが、北下総地方では多少は明らかである(『古河市史研究7』)。「円福寺文書」(現下妻市円福寺蔵)は、戦国期まで下総国大方郡今里郷(現八千代町今里)に所在した円福寺の伝来文書である。計二一点の中世文書(応永二年から戦国期に至る)からは鎌倉公方足利持氏及び古河公方歴代の円福寺外護が明瞭に読み取れるとともに、宍戸氏・山川氏・結城氏などの積極的な円福寺との関わりが知られる(『八千代町史』)。円福寺及び宍戸氏によって特に経営された大方郡今里郷は、鎌倉公方以来公方権力によって掌握された直轄領に準ずる程の所領であった。そして円福寺を公方祈願所とすることにより、この郷は公方による北下総支配の拠点ともなったのである。現に公方権力は石下町域の近傍でこのように現実に確認できるのである。
 豊田氏の円福寺との関りは確認できないが、町内寺院のうち本石下の興正寺(石毛山地蔵院)の本寺が現在の五霞村山王山の東昌寺(六国山)であることは興味深い(『茨城県寺院要覧』)。つまり、東昌寺は一五世紀前半の開創(永享元年という)で古河公方の有力家臣簗田氏外護の曹洞宗寺院である。簗田氏外護の寺院の末寺が町内に所在することは、豊田氏が簗田氏経由で、古河公方と関係を取り結ぶ可能性をも示唆するものではなかろうか。単絡は避けたいが鬼怒川筋への古河公方権力の関与は、想定できる状況にある。