北下総の郷と村

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いわゆる「御水帳」に記載された郷・村の分布及びその比定地、さらには納入物品の一覧はⅢ-1表のようになる。
 
Ⅲ-1表 郷・村年貢等諸役納入覚一覧(宗任神社蔵、伝「御水帳」より作成)
A 幸嶋一二郷
郷・村名比 定 地御年貢夫 銭年始銭袴すり斗 物備 考
(前 欠)
くつかけのかう(沓掛郷)猿島町沓掛二二五〇
とみたの郷(富田郷)岩井市富田一五〇・八三〇富田は半谷本郷か、
他に内容不明五貫文
はんにや(半谷)岩井市半谷二〇半谷は富田郷の枝村、
他に内容不明三貫文
こまはねの郷(駒跿郷)岩井市駒跿(総和村駒羽根)一五百姓中絶により御年貢減、もと一七貫
またての郷(馬立郷)岩井市馬立一五一〇〇・八二〇
ゆたのかう(弓田郷)岩井市弓田四〇一・五七〇「十人の百姓中」
くうたのかう(宮田郷)岩井市幸田二三五〇
神田山郷(神田山郷)岩井市神田山二〇一・五五〇
大口ねこさね
 大口岩井市大口
 猫実岩井市猫実
かりやと(借宿)岩井市借宿二五年始銭・はかますり・斗物は
大口・猫実・借宿の三ヶ所分
やはきのかう(矢作郷)岩井市矢作三五一〇一・五二・五七〇「戸七郷之内」 法師戸の分とも
大崎之郷(大崎郷)岩井市大崎一二〇・八二五「八間にて」水入により、御年貢一貫文減、
また矢作郷へ山野を渡し、
五貫を永代肩代りもと一八貫
大屋くち(大屋口)「七間(軒)之百姓」
岩井市大谷口
一三〇・八二五水入により御年貢減、もと一五貫
むしろうち(筵打)岩井市筵打一〇〇・五二五
下さしま二四村合計御年貢  四八〇貫文(もと 五〇〇貫)御年貢減の郷村
御籾   一〇〇〇俵(一斗二升入桝)ゆわへ郷一〇貫文 ゆた   五貫文
夫銭   一五五貫文こまはね  二貫文 大屋口 二貫文
大崎     一貫文 計  二〇貫文


 
B 豊田三三郷
郷・村名比 定 地御年貢年頭銭役人へ役人面斗物
(夏秋
二回)
備 考
(郷名欠)四〇〇・五一・五八〇
若宮土村(若宮土村)石下町若宮戸二〇(三〇)〇・七五〇・三〇・八四〇三ケ村で一郷
おさかへの郷千代川村長萱か六〇〇・五一二〇
いこたつの村(伊古立村)千代川村伊古立四〇〇・五八〇
袋之郷(袋郷)(千代川村見田袋)六〇
(五〇)
一・五〇・五一二〇
むらおか村(村岡)千代川村村岡二〇〇・七五〇・二〇・七五四〇
水すなの村(水砂村)千代川村砂子二〇〇・七五〇・二〇・七五四〇三ケ村でー郷
白鳥郷(白鳥郷)(千代川村唐崎・見田・
下栗に白鳥あり)
六〇一・五〇・五一・五一二〇
からさき村(唐崎村)千代川村唐崎五〇〇・五一〇〇
みたのむら(見田村)千代川村見田二〇〇・五〇・二四〇三ケ村で一郷
す□たの郷千代川村渋田四〇〇・五一・五八〇
おほ河のむら(小保川村)(千代川村本宗道・伊古
立にも小保川あり)
石下町小保川
〇・五二〇袋畠の枝郷、三ケ村で一郷
ひちやの郷(肘谷郷)下妻市肘谷六〇一・五〇・五一・五一二〇
ふさきのむら千代川村皆葉房地か三〇〇・七五〇・三六〇
はらのむら(原村)千代川村原二〇〇・七五〇・二四〇三ケ村で一郷
くちらの村(鯨村)千代川村鯨四〇〇・五八〇三ケ村で一郷
すさきの郷(洲崎郷)石下町豊田洲崎二〇
(三〇)
〇・五〇・三〇・七五四〇
門宮村石下町門の宮一〇〇・五〇・二〇・五二〇
青柳木村(青柳)石下町新石下青柳一〇〇・五〇・二〇・五二〇
さふくち村一〇〇・五〇・二〇・五二〇四ケ村で一郷
豊田本郷(豊田本郷)石下町豊田一二〇二四〇上郷は本郷に合せ、三ケ村で一郷
石毛(石毛)石下町本石下一六〇三二〇「石下之あら河是壱郷」とある
たかやなき村(高柳村)石下町新石下高柳一〇〇・五〇・二二〇三ケ村で一郷
かまにはの村(鎌庭村)千代川村鎌庭四〇〇・五八〇三ケ村で一郷
袋畠之村(袋畠村)下妻市袋畑六〇一・五〇・五一二〇
矢田部村(矢田部村)下妻市谷田部三〇〇・七五〇・三六〇
はねこのむら(羽子村)千代川村羽子一〇〇・五〇・二二〇
ふるさわのかう(古沢郷)下妻市古沢八〇一・五〇・五一六〇
なめたかう(行田郷)下妻市行田六〇〇・五一二〇
くろすのむら千代川村宗道六〇〇・五一二〇
下栗のむら(下栗村)千代川村下栗六〇〇・五二〇(斗物は一二〇俵か)
小河之中ひけのかう三〇〇・七五〇・三六〇「小河之中」と注記
ひきちの村下妻市東古沢
(通称向比毛)
一〇〇・五〇・二〇・五二〇
かはら本かう(川原本郷)石下町若宮戸川原六〇一・五〇・五一二〇
にいほりの村(新堀村)下妻市新堀三〇〇・七五〇・三一・五六〇
田下村(田下村)千代川村田下三〇〇・七五〇・三一・五六〇
さねまつの村千代川村下栗一〇〇・五〇・二〇・五二〇
松岡村下妻市二本紀二〇〇・三四〇七か村で一郷
(郷名欠)「是二ケ村にて壱郷也」
河又之郷(河又郷)水海道市川又町二〇〇・五四〇河又郷の年貢銭は、河又・野中・
寺畠枝・ほそしろ各村五貫文づつ
河崎之郷(河崎郷)水海道市川崎町四〇〇・五〇・五八〇御年貢は、河崎(一〇)、うちむかい(八)、
上下たか袋(五)、上おめ(一〇)、
おにおさ(八)、「五ヶ村にて壱郷也」
本郷たかやなぎ(本郷高柳)二〇〇・七五〇・五四〇
みさかのむら(三坂村)水海道市三坂町三〇〇・五六〇
しらはた山とう内にて
 白 畑水海道市三坂町白畑
 山戸内水海道市三坂町山戸内
とへた内〇・五〇・二〇・五二〇六か村で一郷
中妻郷(中妻郷)水海道市中妻町四〇〇・五八〇
ちつ気のむら(十家村)水海道市中妻町十家一〇〇・五〇・二〇・五二〇
りやうせん寺つゝら内にて(霊仙寺)水海道市中妻町霊仙寺一五〇・七〇・二〇・五三〇四か村で一郷
水かへとのかう・
ふきあけ・かうやまて
 (水海道・吹上・高野)
水海道市内六〇一・五〇・七一二〇
こやまとのむら(小山戸村)水海道小山戸三〇〇・七〇・三一・五六〇
合   一七八〇貫文  御年貢銭文中に「小河十七郷・飯沼六村・
若四ケ村・大河内六村」の
合計三三郷・村の文言がある。
    三五六〇俵    斗物
    四三貫九〇〇文  御年頭銭
    一八貫六〇〇文  役人へ年頭銭
    五二貫 五〇文  役人面(免カ)


 
C 飯沼之郷「飯沼之郷御調帳」
郷・村名比 定 地御年貢年頭銭役人へ役人面斗物
(夏秋
二回)
備考
つゝら郷一二〇二四〇
羽生之郷(羽生郷)水海道市羽生町四〇〇・五一・五八〇
大輪之郷(大輪郷)水海道市大輪町八〇〇・五一六〇
花島之郷(花島郷)水海道市花島町四〇〇・五一・五八〇
ふるまきのかう(古間木郷)石下町古間木四〇〇・五一・五八〇両村で一郷
蔵持之郷(蔵持郷)石下町蔵持三〇〇・五一・五六〇
石毛之郷(石毛郷)石下町向石下四〇〇・五一・五八〇
五か之村(五箇村)千代川村五箇一〇〇・五〇・二〇・五二〇三か村で一郷
こつちやう(国生)石下町国生四〇〇・五一・五八〇
み名波之郷(皆葉郷)千代川村皆葉四〇〇・五一・五八〇両村で一郷
へつふの郷(別府郷)千代川村別府三〇〇・七五〇・三六〇
ほつとの村     八千代町仁江戸字法戸三〇〇・七五〇・三六〇両所で一郷
合   五四〇貫文 御年貢銭
    一〇八〇俵 斗物(一斗二升入桝)
    一二貫 御年頭銭
      (後欠)

 
 石下町域内に比定される郷と村は併せて一三である。岩井市・猿島町・石下町・千代川村・下妻市・水海道市・八千代町にわたるこれらの郷と村の分布と、そこから納入される銭と斗物(米か)の内訳けを示したのが記載内容のあらましである。ここで先ず知りたいのはかかる銭米の納入先である。この解明は原史料(底本)の作成主体が誰かということとも関連する重大事である。そこでこの史料の郷・村部分は全体として意味あるものと理解し、三か所の年紀部分は全くの仮託とみる。但し、「御しらへの衆」(御方)」「御奉行衆」と対をなすと思われる「畠山六郎」「岩堀八郎」「えひら(な)の左衛門尉」「岩堀左衛門大夫」などを古河公方奉公衆中の同氏族に、「御鎌倉」を鎌倉公方(古河公方でも可)の意にとると、この史料はどうやら古河公方による下総国幸嶋・豊田両郡支配に関係するものと想定されるのである(かなりの推測ではあるが、古河公方支配時期の徴税台帳ではあり得ないとする積極的理由もない)。元禄の写本であるため、また書写の目的が別途にあった感も深いので、忠実な書写本とはなっていないが、郷・村部分は特に奇異な書写ではない。むしろ有り体な書写であるといえる。
 この史料の底本を念頭に置いてみる時、底本の形状は想像もできないし、又この写本からも内容が三区分されているが、史料としての性格は「年貢等諸役納入覚」ではなかろうか。上申でもなく下達でもなく、備忘の記録のようである。強いて言えば、古河公方側の在地検注時、役人によって作成される「検注帳」とは別に、郷・村側で独自に作成された「覚」的なものが、この「御水帳」の底本ではなかったろうか。
 「喜連川料所記」という古河公方御料所を列記した史料がある(『栃木県史 史料編』中世二所収)。この中には御料所の知行人も明記され、公方の直轄領支配の様相が知られて公方政権の実態の一側面をみせてくれる。一方「御水帳」中の幸嶋一二郷はその殆んどが「料所記」所載の郷名と一致する。従って「御水帳」中の郷・村が即ち公方御料所であると断言はできないが、そのような性格の郷・村である可能性はある。前節で述べたように、公方の鬼怒川筋への権力介入は明らかである。今又、この「御水帳」の分析の結果として、公方権力の徴税の実態を幸嶋・豊田二郡内の郷・村で確認できるならば、「御水帳」本文の価値はすこぶる高いものになる。
 

Ⅲ-10図 「御水帳」の本文(右頁4行目に「石毛之あら河是壱郷」とある)

 この「御水帳」(便宜上、一貫してこの通称を用いる。内容上は「年貢等諸役納入覚」)には豊田氏の片鱗もみえないが、豊田氏の在地支配は確かに貫徹していたのである。一五世紀後半には下妻多賀谷氏が豊田郡へもその勢力を伸し、豊田氏を凌駕するが、在地領主としての権益を失ったわけではない(第四章に参照)。
 豊田氏の豊田荘支配を知る史料が残存しないことは町域の中世史解明に致命的なことであるが、豊田氏知行下の北下総地方へ古河公方の支配が大局的に及んでも不思議ではない。豊田氏以外の領主の場合も同様である。そこでは「喜連川料所記」「円福寺文書」によってみられるような公方と領主階級の微妙な関係が成立しているのである。「御水帳」の内容が何時の事なのか不明だが、北下総の郷・村の便宜的・行政的再編の事実を伝える点でも一層の検討が加えられて然るべきである。古河公方権力の再評価が進む現在、かかる「御水帳」所載の郷・村をこそ公方権力の現実的基盤とはいえないだろうか。