戦国期に豊田氏が豊田城を拠点として石下地域を支配している頃、その北方には下妻城を拠点として勢力拡大をめざす多賀谷氏がいた。この多賀谷氏と豊田氏はその後領域支配をめぐって激戦をくりひろげることになる。そこで、まずこの多賀谷氏について概観しておこう。
多賀谷氏は、伝えられている系図・家譜によれば、武蔵秩父氏の一族である金子氏から出ており、「武蔵国騎西郷多賀谷」に住したことによって姓としたという。平姓であるから大きくみれば豊田氏とは同系である。多賀谷氏がはじめて史料にみえるのは、鎌倉期の建久元年(一一九〇)、源頼朝の入洛に際して「多加(賀)谷小三郎」が先陣随兵の九番目として加わったという「吾妻鏡」の記述である。この時、三三番目に「豊田兵衛尉(義幹)」がみえていることは前に述べた。以後「吾妻鏡」に多賀谷氏はたびたび登場しており、将軍の随兵として、また鎌倉由比ケ浜で行なわれる「御弓始」の射手として名がみえている。系図・家譜によれば多賀谷氏にもいくつかの系統があったことが知られるが、その後の発展については不明な点が多い。下って室町期になると、下総の結城氏が鎌倉公方足利氏の信を得て、武蔵騎西荘を支配するが、その時、騎西荘内多賀谷郷を本貫としていた多賀谷氏が、結城氏と関係を有するようになったという。