多賀谷氏と結城氏―結城合戦―

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この結城氏は藤原秀郷流で朝光のとき、源頼朝から結城の地を安堵され、また陸奥白河に分出しながら以後、室町期に至る。結城氏は応永二十九年(一四二二)以降、関東管領上杉憲実と対立し、永享十年(一四三八)、鎌倉公方足利持氏が室町幕府に対抗したいわゆる「永享の乱」において持氏に与した。永享の乱以後、鎌倉府では上杉憲実が実権を掌握したため、結城氏朝は、永享十二年(一四四〇)、さきの永享の乱で自殺した足利持氏の遺子春王・安王を擁立し、結城城に籠り幕府に対し挙兵した。これに対し幕府は大軍を派遣し、ついに結城城を陥落させた。そして氏朝は自殺し、春王・安王も捕えられ美濃で殺された。これが世にいう結城合戦である。この時、多賀谷氏は結城氏とのつながりから結城勢となっていたために、大きな打撃をうけたと思われる。
 捕えられて上京していた足利持氏の遺子の一人成氏が、宝徳元年(一四四九)に鎌倉公方として復帰すると、結城氏でも氏朝の子成朝が再興を許された。それまで成朝をかくまっていたのは多賀谷氏家であったという。氏家は弟の高経とともに結城氏の再興、発展に尽力し、そうした功績によって下妻や関館を与えられた。しかし寛正三年(一四六二)十二月、高経は結城成朝を謀殺してしまう。これは結城氏のなかにあって多賀谷氏のもつ政治的地位が惹き起こした矛盾とも考えられる。あるいは、それから五年後の応仁元年(一四六七)、京都を中心に応仁の乱がおこり、下剋上の時代へと歴史は転換するが、この事件はこの地域にみられる下剋上の一例として考えることもできよう(『関城町史 史料編Ⅲ』)。しかしその後、高経の孫和泉守は権勢をふるったので成朝の子政朝に明応八年(一四九九)殺され多賀谷氏の結城での展開は終わりを告げた。
 

Ⅳ-1図 多賀谷系図(『下妻市史』)