捕えられて上京していた足利持氏の遺子の一人成氏が、宝徳元年(一四四九)に鎌倉公方として復帰すると、結城氏でも氏朝の子成朝が再興を許された。それまで成朝をかくまっていたのは多賀谷氏家であったという。氏家は弟の高経とともに結城氏の再興、発展に尽力し、そうした功績によって下妻や関館を与えられた。しかし寛正三年(一四六二)十二月、高経は結城成朝を謀殺してしまう。これは結城氏のなかにあって多賀谷氏のもつ政治的地位が惹き起こした矛盾とも考えられる。あるいは、それから五年後の応仁元年(一四六七)、京都を中心に応仁の乱がおこり、下剋上の時代へと歴史は転換するが、この事件はこの地域にみられる下剋上の一例として考えることもできよう(『関城町史 史料編Ⅲ』)。しかしその後、高経の孫和泉守は権勢をふるったので成朝の子政朝に明応八年(一四九九)殺され多賀谷氏の結城での展開は終わりを告げた。
Ⅳ-1図 多賀谷系図(『下妻市史』)