下妻城主多賀谷氏の発展

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下妻城は寛正二年(一四六一)多賀谷氏家によって築かれたとされている。その氏家のあとをついだのは家植(高経の子)である。家植は下妻城に移ったわけであるが、初期の家植についての史料はなく、あるいは永正十七年(一五二〇)、下妻の小野子に伝わる木造千手観音座像の胎内銘に「大檀那多賀谷下総守基泰」とみえている人物が同一人とも考えられている。
 家植は、下館の水谷氏や山川の山川氏とともに主家にあたる結城氏朝を補佐し、また古河公方足利成氏の政治的安定にも尽力した。そして下妻の周囲へむけてその支配領域の拡大=進出をこころみるのである。この家植による進出は、結城氏を擁し、古河公方足利氏の政治的権威を背景として行なわれたわけであり、あきらかに進出を正統化する意味をもっていた。
 豊田氏の支配領域である豊田郡域は、下妻からみて南にあたるが、多賀谷氏の南域への進出は豊田氏との抗争を惹き起こしていった。それでは多賀谷氏と豊田氏はなぜ抗争しなければならなかったのであろうか。多賀谷氏による版図の拡大であることはいう迄もないことであるが、政治的対立の要因を別にもとめるとすれば、おそらく前述した結城合戦がポイントになると思われる。というのは結城合戦に際して多賀谷氏はともかく、豊田氏の動向がはっきりしない。したがって両者の関係が意味をもってくるのではないか、と考えるからである。
 ところで豊田郡域は、室町前期においては関東管領上杉氏の所領が多くみられたところであり、豊田氏もその影響を強く受けていたとすれば、結城合戦に際して対立する結城城に籠ることは考えられない。すなわち、結城合戦において豊田氏は、関東管領方に与しており、その点がのちに多賀谷氏と対立していく、決定的な要因となったのではなかろうか。