小田氏の発展

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「小田家風記」という、おそらく江戸時代にまとめられたと思われる、戦国時代の小田氏の給人八百余名を書き上げた名簿には「外家大名」として
 
             三万石
  一 豊田城主     豊田安芸守
 
がみえている。三万石という戦国時代当時の領地高はともかく、豊田氏が小田氏から「外家大名」という江戸時代でいえば「外様大名」のような格を付され、小田氏にとっては同盟者的な立場にあったことは考えられるところである。
 小田氏は鎌倉以来の北関東における名族であり、源頼朝によって常陸守護職に補任され、はじめ八田を姓していたが、のち筑波郡小田に移り小田を姓するようになった。以後、一族の宍戸氏とともに常陸守護職を継承する。
 南北朝の動乱に際し、小田城は常総において関・大宝城とともに、南朝の有力拠点として暦応元=延元三年(一三三八)九月、北畠親房ついで翌年二月には有力武将の春日顕国が入城するなど活気を呈している。しかし、暦応三=興国元年(一三四〇)北朝を支持する室町幕府の高師冬に攻められ、小田氏はこれを防いだものの、南朝の内部分裂の影響から、ほどなく降服し、逆に南朝勢力と交戦するに至っている。
 室町幕府が応永五年(一三九八)、「三管四職」の家格を設けると、鎌倉府でも「関東八館」の家格を設けたが、小田氏は小山・宇都宮・那須・長沼・結城・千葉・佐竹の諸氏とともにこれに任ぜられている。彼らはいずれも鎌倉以来の伝統的豪族であり、したがって小田氏の関東における政治的立場は重要なものであった。