多賀谷家譜と多賀谷七代記

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そこで、ここでは「東国闘戦見聞私記」をはじめとする類本にたよらずに、それらより比較的信頼できる史料によって、戦国期の豊田氏について考えていくことにしたい。比較的信頼しうる史料とは、前述した多賀谷氏に関する①「多賀谷家譜」、②「多賀谷旧記」、③「多賀谷記」、④「多賀谷七代記」や結城氏に関する⑤「結城家之記」といったものであり、これらのなかに豊田氏に関する記述や参考となる記述がみえている。そこでこれらの史料について、簡単に検討しておくことにしよう。
 ①は佐竹藩に仕えた多賀谷隆家が、同藩に提出した家譜であり、初代家政から江戸初期の隆家に至る多賀谷歴代の事績が記されている。これまでの研究によれば、政経の部分までは重経の時代に(天正末~慶長期頃)、重経の部分は家宣の時代に(慶長期頃)、宣家の部分は元禄期に隆家によったものであろうとされている(『関城町史 史料編Ⅲ』)。②と①の重経の部分まではほとんど同じであり、書体・文章も良質で、①の底本(基になった本のこと)とも考えられている(『前掲書』)。③は④の奥書によれば、宝永四年(一七〇七)の春、秋田より多賀谷経忠という八〇余歳の人物が、下妻へ出かけて来て先祖の事績を採集した記録であるとされ、宣家の系譜をひく経忠は、その折、下妻の円福寺で多賀谷七代の追善供養を営んだという。そして④は、その後の延享四年(一七四七)八月に、小林覚右衛門尉尚房なる人物が、多賀谷氏家から重経まで七代の事績をまとめたものである。なお小林尚房は下妻井上藩の儒者だったという(『下妻市史料 多賀氏関係(二)』)。⑤は結城氏の鎌倉期から戦国期に至る歴代の事績をまとめたものであるが、奥書によって、一六代政勝が自ら書き記したこと、それを一七代晴朝があらためて写し、慶長十二年(一六〇七)十月二日に完成していることがわかる。
 以上、これら①~⑤史料は江戸時代初期から遅くとも中期頃までに成立したと考えられ、したがって、ここにみえる豊田氏の記述は比較的信頼しうる記述としてよいであろう。以下、これらを参考としつつ戦国期の豊田氏について、みていくことにしよう。