多賀谷家植の侵攻

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多賀谷氏が下妻周辺の地域に侵攻をはじめるのは、さきに述べたように家植の時代からである。「多賀谷家譜」によれば、文明十年(一四七八)、古河公方足利義氏が家植に密かに「総・常之諸士」の「平均」すなわち平定を命じたため、これによって家植が「下総国豊田郡三十三郷」への侵攻を開始し、行田の田宮宮内、下栗の常楽寺某を征し、ついで袋畑右京、肘屋小次郎、唐崎修理、袋弾正、長萱大炊、伊古立掃部などを服属させたという。彼らの姓は石下周辺に地名として確認することができるから、おそらく在地名を姓とした地侍であったのだろう。そして桐ケ瀬城の小川又五郎、吉沼城の原外記などを攻め、原氏を滅した後、同城には渡辺道欽を置いたという。これらの記述に多賀谷氏の下妻南域における急速な侵攻をみることができるが、こうした多賀谷家植の侵攻は古河公方の要請にもとづいたものとして、自らの侵攻を正統化しつつ行なったものであろう。なおこの多賀谷氏の侵攻の開始を、「多賀谷七代記」では文明十五年(一四八三)としている。
 また「多賀谷七代記」によれば、文明十五年の秋、多賀谷家植は子の家重と吉沼城の渡辺道欽に豊田治親の拠る豊田城を攻撃させたが城は落ちず、そればかりか治親の弟の赤須七郎将親が台豊田の出城から多賀谷勢を狭撃したために、多賀谷勢は下妻へ引き上げたという。しかし再び家植は、今度は豊田中務尉政治の拠る向石毛城を攻撃し、これによって豊田政治は家植に下ったという。その後、家植は、岡田郡大方、飯沼両城を攻め、飯沼城には猿島地域への押えとして赤松民部を置き、また報恩寺国長も家植に属したという。この一連の家植の南進について「多賀谷家譜」では文明十年、「多賀谷七代記」では文明十五年としており、はっきりしないが、侵攻の経過についての記述はほとんど同じであり、文明年間における多賀谷氏の豊田領侵攻は事実と考えてよいであろう。
 しかし「多賀谷七代記」に記されているように、この時の豊田氏の当主を治親とすると、天正五年(一五七七)豊田氏滅亡時の当主は治親とされているから、その間一〇〇年余あり年代的にいって文明年間の当主は治親ではなく、その一代か二代前ということになる。豊田氏の系図についても不明な点が多く、「東国闘戦見聞私記」によれば、治親の一代前は政親、二代前は基政である。さらに治親の弟将親についても「多賀谷七代記」には、豊田氏滅亡の時点でもみえており、したがって治親と同じく文明年間には存在していないことになる。こうした点から「多賀谷七代記」にも不明な点のあることを認めないわけにはいかない。
 

Ⅳ-3図 多宝院(左)と家植の墓(下妻市教育委員会提供)