なお、前述したように、多賀谷家植の侵攻の過程で、豊田中務尉政治が多賀谷氏に属したとあるが、この政治について「多賀谷家譜」には「豊田中務居ス二石毛(イシゲノ)城ニ一又構ヘ二子-城ヲ於向(ムカヒ)-石-毛杉-山ニ一曰二西館ト一」とあり、また「多賀谷七代記」には「豊田中務ハ小田天庵ノ旗下ニテ、豊田治親ノ一族也」とある。文明年間、小田氏の当主は天庵=氏治ではなく成治であり、誤って伝えられたのであろうが、豊田政治は石毛城に在城し、鬼怒川を挟み対岸(西側)に向石毛城を石毛城の属城として築き、同城を「西館」と称して拠点としたという。向石毛城がいつ築かれたかは不明であるが、鬼怒川の西側を押えることは、本城である豊田城を防衛する意味からも重要であり、しかも多賀谷氏の侵攻によって、北方の常楽寺某をはじめ諸地侍が服していくなかで、鬼怒川の西側を押える向石毛城の軍事的重要性は、一段と増していったはずである。なお向石毛城には館武蔵守なる人物が住していたとされているので、その後豊田政治に命ぜられて同城に居したのであろうか。
このいわば石毛豊田氏ともいうべき系統は、前述のように多賀谷家植に属する前は小田氏の旗下にあったようであるが、豊田氏の当主が東弘寺に伝わる系図により、治元・常治・治親というように、いわば小田一族ふうの名乗りをしている点に注目し、さらに治親の(義カ)弟政重は、小田氏治の(義カ)甥にあたるという関係(『趣味の結城郡風土記・郷土年表』)など、真偽ははかりがたいものの、こうした伝承からして、豊田氏は小田氏と姻戚関係であったことが知られ、また小田氏のいわば目下の同盟者的な立場にあったとも考えられるのである。
これらの点から考えれば、石毛豊田氏と豊田氏とは同族にして対等の立場にあったとさえいいうる。したがって多賀谷家植の侵攻によって石毛豊田氏が小田方から多賀谷方に転じたことは、豊田氏にとって大きな危機であった。なお「多賀谷家譜」によれば、文明期多賀谷氏は、豊田氏の臣「飯富(見)大膳」を誘って「豊田四郎」を殺させ、後に大膳を殺したことになっているが、これは豊田氏の滅亡に関する記述であり、やはり誤って伝えられたものであろう。