豊田治親の感状

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「東国戦記実録」という戦記物によると永禄元年(一五五八)多賀谷重政が豊田領へ侵入したため豊田氏はこれを小田氏の援軍をえて、長峰原(現つくば市)と小貝川において戦い、これを敗走させたという。いわゆる長峰原の合戦と小貝川の合戦といわれているが、両合戦について「多賀谷家譜」や「多賀谷七代記」などの諸史料には見当らない。あるいは多賀谷氏が敗北したため記されなかったのであろうか。
 「東国戦記実録」の記述でとくに興味深いのは、その時豊田氏が小田軍のうちの「沼尻又五郎」なる人物に与えた感状の写が記されていることである。文言は「今度豊田於袋城無比類相働神妙之至、已後弥可抽忠節」というものである。これを認めるならば、今日に伝わる唯一の豊田氏の発給文書ということになる。しかし、つくば市金田の沼尻家に伝わる文書のうちに、つぎのようなものがある。
 
  今度於豊田袋城無是非候、相働候、感思召候、弥抽忠節之由、可為神妙候也
                    (小田氏治)
     七月五日           (花押影)
     沼尻又五郎との
                                     (『茨城県史料 中世編I』)
 
 さきに示した感状と同じような感状が沼尻又五郎に小田氏治から出されている。しかしこの文書は「写」であって書体・形式・花押などに検討の余地を残している(『県史料』解説)。したがって豊田氏による感状も同様であろう。すなわち、感状というものは一般に後世になってから、自分の家名を誇示するためにつくられている場合が多いのである。史料としてはより慎重に検討していかねばならない。
 

Ⅳ-5図 小田氏晴感状写(つくば市 沼尻隆氏蔵)

 永禄二年九月、小田氏治は結城へ侵攻し、結城晴朝はこれを撃退したが、その後、同年の末ごろから翌年にかけて、晴朝の関宿在陣の留守をねらって多賀谷政経は佐竹義昭、小田氏治、宇都宮広綱らと結んで結城に侵攻してきた。晴朝は急ぎ結城へ戻りこれを必死に防ぎきったという(「結城家之記」)。
 永禄三年九月、越後の長尾景虎(後の上杉謙信、以下謙信とする)は、上越国境を越え関東に出陣してきた。目的は関東管領上杉氏の擁立であり、これによって関東の諸士は謙信に多くなびいていった。さきの永禄二年末から翌年はじめにかけての、多賀谷・小田氏の結城侵攻も、年代を「結城家之記」に拠っているところから、あるいは上杉謙信の関東出陣に呼応したもので、永禄三年から四年のはじめとする考えも成り立つ(『関城町史史料編Ⅲ』)。いずれにせよ以後、関東管領に就任した上杉謙信と、古河公方を擁立する北条氏康は、関東支配の正統性を主張し対立したために、結城・小山・宇都宮・小田氏らの旧来からの豪族や、多賀谷氏など新興勢力を含めて、その対応のあり方が上杉、北条両勢力の対立に大きく影響していった。しかも謙信は毎年のように関東へ出陣してきたので諸豪族にとって、その対応は微妙であった。