「小田氏治味方注文」と豊田氏

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豊田氏が与した小田氏は、上杉謙信の永禄三年の関東出陣以降、これに従っていたが、永禄六年(一五六三)の末ごろには北条氏に接近していった。そのため翌七年一月には謙信は、佐竹・宇都宮氏とともに小田城を攻めている。さらに同年十一月には佐竹氏が小田城を再び攻め、小田氏治を土浦へ敗走させている。翌永禄八年の十二月に氏治は小田帰城をはたしたが、上杉謙信は離反が相つぐ北関東の豪族を牽制するため出陣してきた。年が明けて永禄九年二月、謙信は小田城を再び攻め、これを占領している。このようにして小田城を中心とする筑波南域は混乱のなかにおかれたのである。この頃に作成されたと考えられる文書が「上杉家文書」のなかにある。
 
  「(包紙ウワ書)小田ミかたの書付」
    小田みかた(味方)のちり(地利)
  一つちうら(土浦)すけのやつのかミ(菅谷摂津守)
  一きなまり(木田余)したのいせ(信太伊勢)
  一とさき(戸崎)すけのや(菅谷)次郎さへもん(左衛門)
  一しゝくら(宍倉)すけのやむまのてう(菅谷右馬允)
  一やたへ(矢田部)おかミのたんちやう(岡見弾正)
  同とうりんち(東輪寺)こんとうちふ(近藤治部)
  一うしよく(牛久)おかみの山しろ(岡見山城)
  一とよた(豊田)さへもんのてう(左衛門尉)
  一とき(土岐)大せんの大ふ(大膳大夫)
    以上九ケ所
  一さたけ(佐竹)の陣所、まなへ(真鍋)のたい、つちうらきんへん(土浦近辺)、
  一ゆふき(結城)・同山かわ(山川)・同しもたて(下館)、しまつま(下妻)ととり(取)合候、
  一小山・同うつのミや(宇都宮)・同させんいん(座禅院)、ミふ(壬生)・ミなかわ(皆川)ととり(取)合、


 
 これは一般には「小田氏治味方注文」といわれているものである。作られた時期ははっきりしないが、前述のような上杉・小田氏の抗争期に上杉氏方によって小田氏に味方する地利すなわち城砦が書き上げられたものである。小田方の城として土浦、木田余、戸崎、宍倉、矢田部、東輪寺、牛久、土岐(江戸崎)とともに豊田がみえており、さらに後半部分によって結城、山川、水谷(下館)、多賀谷(下妻)の諸氏が「取合」すなわち連合していることが知られる。
 城名の下には城主名が記されているが、豊田城には「左衛門尉」の名がみえている。豊田左衛門尉の実名はわからないが、やはり「治親」をさすのであろうか。ともかく、小田氏と対抗する上杉謙信にとって豊田氏は敵対勢力として明確に位置づけられていることが知られる。なおこの史料は戦国期の豊田氏の存在を確認しうる上で、重要なものである。
 ところで上杉謙信が豊田城を攻めたという記録や伝承もなく、それはその通りであろう。しかし謙信の関東出陣は小田氏に与している豊田氏にとって大きな意味をもっていたに違いない。おそらく豊田家中にあっても上杉氏につくか、北条氏につくかをめぐって模索が行なわれたことであろうと思われる。