これらのうち、左衛門尉は永禄七~九年(一五六四~六)の頃であり、豊田氏の滅亡が後述するように天正五年(一五七七)で、その時の当主は「多賀谷七代記」により安芸守治親と思われるから、左衛門尉=安芸守であろう。また、「多賀谷家譜」によれば豊田四郎も滅亡時の当主であるから、左衛門尉=安芸守=四郎ということになる。おそらく順序からすれば治親は、最初に四郎、そして左衛門尉、最後に安芸守を称したと思われる。したがって治親が左衛門尉から安芸守と称するのは永禄九年頃以降ということになろう。
では石気次郎五郎とは誰であろうか、ということになるが現在のところ不明としかいいようがない。また「多賀谷家譜」によれば、豊田中務は石毛城に住し、向石毛城を築いたとみえ、「多賀谷七代記」には「向石下ノ城主豊田中務尉政治」とみえており、豊田中務は豊田政治のことであろう。なお「東国闘戦見聞私記」によれば治親の弟重政が石毛城主となっているが政治と重政の関係は不明である。前述したように豊田政治は石毛豊田氏として豊田本家にならびうる力を有していたと思われるが、石気次郎五郎とは、おそらくこの一族であろうと考えられる。また「多賀谷七代記」によれば赤須七郎将親は治親の弟で台豊田の城主であったとされている。
ところで、さきに示した「東弘寺薬師像内背面墨書銘」には「市川家風弥藤三郎」という名が「石気ノ次郎五郎」の右側にみえている。市川とは天正六年四月十九日付石塚将監宛多賀谷尊経知行宛行状写(「石塚文書」『関城町史史料編Ⅲ』)に「石毛市河肥前内五貫文之所」とあるように石毛に所領をもっていた豊田氏の給人であり、また「家風」とはその家に従属した被官人、家人をさすと思われ、それが「弥藤三郎」である。弥藤三郎が石気次郎五郎とともに百文を階層差を越えて東弘寺の薬師像に納めているところに信仰の一面を見ることができるが、ここでは豊田一族石気次郎五郎、給人市川某、家風弥藤三郎という豊田権力を構成する諸階層を指摘しておきたい。おそらく弥藤三郎は豊田氏の軍事力の基礎を担った人だったのである。
Ⅳ-6図 東弘寺薬師胎内銘