豊田城周辺をさぐる

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豊田氏の領域支配は長峰・金村・石毛・向石毛・古間木などの支城によって行なわれたと考えられるが、その中心となったのが豊田城である。豊田城が築かれていたのは、南北約四・八キロにわたる細長い微高地上であり、この微高地は東に小貝川、西は低湿地にかこまれており、豊田城はそのやや南域に築かれていた。豊田城は豊田一二代善基が築城したというが明らかでなく、また縄張り等にも不明な点が多い(第五章第一節)。また開発流路変更などによって往時の景観は変っている。しかし幸いなことに明治二十一年(一八八八)に作成された町内の小字図が町役場に保管されており、それらによって少しではあるが、かっての豊田城周辺の様子がわかる。もちろん今に伝わる小字名のすべてが、戦国の頃からあったとは限らず、江戸期に入ってからのものもあろう。しかし、ある程度は復元の手掛りとなると思われる。
 そこで石下町の地形図のうち豊田地区に、小字名を大雄把に六〇ほど選んで相当地域に記入してみたのがⅣ-7の図であり、番号は小字名に対応する。以下簡単に概観してみよう。
 

Ⅳ-7図 豊田周辺主要字図
① 上宿 ② 下宿 ③ 門之宮 ④ 大境 ⑤ 観音西 ⑥ 鷲西 ⑦ 鷲宮 ⑧ 鷲東 ⑨ 観音堂 ⑩ 観音東 ⑪ 観音前 ⑫ 諏訪西 ⑬ 諏訪後 ⑭ 諏訪東 ⑮ 諏訪 ⑯ 諏訪前 ⑰ 阿弥陀西 ⑱ 阿弥陀後 ⑲ 阿弥陀東 ⑳ 阿弥陀前 ㉑ 明神後 ㉒ 明神東 ㉓ 明神前 ㉔ 明神西 ㉕ 寺前


Ⅳ-7図 豊田周辺主要字図
㉖ 丸池 ㉗ 上宿 ㉘ 大道東 ㉙ 下宿 ㉚ 新宿 ㉛ 馬洗戸 ㉜ 大道西 ㉝ 寺裏 ㉞ 諏訪前 ㉟ 寺前 ㊱ 北宿 ㊲ 稲荷表 ㊳ 稲荷前 ㊴ 稲荷裏 ㊵ 内宿 ㊶ 北宿前 ㊷ 鹿納 ㊸ 大道添 ㊹ 中城 ㊺ 五輪 ㊻ 御門内 ㊼ 御門内東 ㊽ 下り戸 ㊾ 堤外粕内 ㊿ 粕内 51 御林 52 荒句 53 山中 54 貴船 55 薬師下 56 蔵王 57 山荒句 58 曲田 59 屋敷付 60 前畑 61 亀ノ甲

 地形図の上部、北のちょうど微高地の入口にあたるところに上宿①(数字は図中番号)。下宿②、そしてその南に大境④がある。ここが後述する宗教的地域との境なのであろう。またこの微高地は大きく豊田と本豊田にわけることができるが、豊田には南に諏訪社⑫~⑯、阿部神社(宗任明神)㉑~㉔、北に鷲宮⑦・⑧、観音堂⑩・⑪といった社寺を中心とする小字名、本豊田には中城や上宿、新宿などの小字名がみえている。このことは豊田、本豊田の地域的特徴を示している。すなわちこうした小字名を中世にさかのぼらせて考えるとすれば本豊田は武士、商・職人の地域であり、豊田は宗教的地域であったということになる。
 かつての豊田城の位置は、本豊田のうち中城㊹であり、その西南にある鹿納㊷は、領主豊田氏による勧農に関するものであろうか。その南に御門内㊻、御門内東㊼がみえる。ちょうどその付近が南宿であり、この辺は豊田城の門外だったと思われる。また貴船54のあたりはもと給人が住んでいたため「家中町」とよんでいたと伝えられている。