つぎに豊田であるが、阿部神社は豊田氏が豊田築城の折に宗道(現千代川村)より勧請したものと伝えられ、また北の観音堂(長楽寺)も築城の折、城の鎮護を祈念して建立したものと伝えられている。この二社寺は微高地の主要道に沿って建てられており、その空間は豊田城の防衛のための陣所の役割を果したことであろう。したがってこれらの社寺の建立は豊田築城と関連しているとみることができるが、微高地上には、その他にも門宮③、鷲宮⑥~⑧、阿弥陀⑰~⑳、稲荷㊲・㊳、貴船54、薬師55、蔵王56といったように寺社の小字名が多い。
Ⅳ-8図 阿部神社(豊田)
これらは地域ごとに(A)門宮・鷲宮・観音堂、(B)諏訪社・常心院(寺前㉟)、(C)阿部神社・阿弥陀、(D)貴船・薬師・蔵王というようにわけることができる。これらの小字名にみられる寺社がすべて存在したかは不明であり、なかには寺社所有田に付された単なる名称というものもあろうが、小字に前・後・裏・東・西・下などが付されているところから、多くはかつてその地にあったと思われる。また、これらの社寺の開創も多く不明であるが戦国期に存在していたとするならば、その立地から宗教的意味にとどまらず軍事的意味ももつに至ったと考えることができる。微高地の北は千代川・下妻方面であり多賀谷氏の侵攻も当然予想されたであろうから(蛇沼合戦は観音堂付近という)、たとえば多賀谷氏の侵攻があった場合、まず(A)地域で防ぎ、それが破られ敵が南進した場合には(B)と(C)で、微高地を貫ぬく主要道の両側面から防衛するというようにである。また南は(D)がそれを担ったのであろう。これによって南より北の防備を固めたことがわかるが、やはり多賀谷氏との対抗上からと思われる。勿論これだけで豊田城を防衛しようとしたのではなく、あくまでも支城からの援軍が到着するまでの一時的な措置であった。
以上、述べてきたことは、あくまで小字名を戦国期の状況を示すものとして考えた場合にいえることである。しかし南北に細長い、豊田・本豊田の微高地は、おそらく軍事、商・工業、宗教的要素を有した「豊田氏の世界」であったことは事実であろう。