(一)「多賀谷家譜」「多賀谷七代記」によれば、一族豊田中務政治は向石毛城を築き、これを「西館」と称
し石毛城の支城とし、小田氏の旗下にあったが、多賀谷家植の侵攻により、これにしたがったという。
(二) 後述するように「多賀谷七代記」によれば、豊田治親は重臣の飯見大膳正によって天正六年(一五七八)
謀殺されてしまった。
(三) 豊田治親は長峰原合戦における沼尻又五郎の戦功を賞し感状を与えたという。
以上であるが、まず(一)によって豊田氏の当主が一族の政治的行動を直接規制しえないことが考えられ、(二)によって豊田当主と給人との間に矛盾が生じていたことを指摘できる。また(三)が事実とすれば豊田氏の当主は感状を与える権利を有していたことになる。こうした点から豊田氏当主そのものの権力は、かなり限定されていたと考えられ、豊田氏当主は共通の利害によって、一族・給人を動かすことができたわけで、こうした権力はいわば一揆的なものであったとみることができる。ただ一揆にも盟主(指導者)がいるわけであり、その限りで豊田氏当主は権力の中心だったといえよう。(三)を事実とすれば、それは周囲から代表者のもつ権限として認められていたということになる。すなわち、地域権力としての豊田氏の性格とは、いわば国人(支城主)や土豪の結合による一揆的な権力であり、その盟主が豊田氏であったのである。
Ⅳ-9図 豊田城跡