追而年頭之御祝義、閑居迄御尋、一入御志不浅次第候、旧冬無指義之上、遥々不申承候、非本意候、当春
も節々可申承事、御同意所仰候、仍而豊田此方ヘ各別之刷、更無是非事候、然者中途ニ被立馬、申、廿九
帰陣、境等堅固ニ被申付候、定而可御心安候、如何様牛久ヘ罷越之時分、程近候間、具ニ可申承候、良緬
不遂面上候、彼此直申承度念望迄候、御吉事早々可申承候、恐々謹言
信太朽之助
正月十七日 総可(花押)
臼田河内守殿
御報
(『茨城県史料 中世編I』)
この文書は稲敷郡江戸崎町羽賀の臼田家に伝わる文書である。年は未詳であるが正月十七日信太総可が臼田河内守に宛た書状である。臼田氏は土岐氏とともに信濃国から一四世紀後半、上杉憲方によって信太荘布佐郷を与えられ同地に移住し、周辺に勢力をもった豪族である。なお土岐氏はのち江戸崎・竜ケ崎城を拠点に勢力をもち小田氏に従った。「小田氏治味方注文」に「一とき(土岐) 大せん(大勝)の大ふ(大夫)」とみえている。
さて差出者である信太総可とはどのような人物であったか不明である。しかし「小田氏治味方注文」に「一 きなまり(木田余) した(信太)のいせ(伊勢)」とあって、永禄七~九年頃、木田余城(土浦市)に信太伊勢守が在城しており、また臼田文書のなかの、年未詳卯(四)月十六日付臼田宛蛭川治定の書状に「木田余地へ昨日罷越、于今不罷帰候間、不及御報候」とあって臼田氏と木田余城とのつながりがみられるところから、信太総可は木田余城の信太氏と考えてよいであろう。したがって総可は小田氏に属していたのであるが、元亀元年(一五七〇)一月、小田氏に滅ぼされてしまう。
また文中「仍而豊田此方へ各別之刷」とあって豊田氏がみえている。豊田氏が記されている同時代史料として「小田氏治味方注文」とともに貴重なものである。さらに文中「如何様牛久へ罷越之時分」とあるが牛久は岡見氏をさす。岡見氏も「小田氏治味方注文」に「一 うしよく(牛久) おかミ(岡見)の山しろ(山城)」とあって小田氏に属していた。
つぎに史料の内容を箇条書に示してみよう。
一 年頭祝儀への礼を謝していること。
二 当春(臼田氏から)、自分(総可)が申し承った事については(小田氏の)「御同意」をえたこと。
三 したがって豊田氏が此方(臼田氏)に対して特別の対応(援軍か)をすることは言う迄もないこと。
四 したがって(臼田氏が)立馬(出陣)して境(戦線)を厳しく固めたことは(小田氏にとって)「御心安」きこ
とであること。
五 自分(総可)が牛久城へ赴いた際には、臼田氏の城館が近くなるので、くわしく用件を申し承るであろう
こと。
以上である。この史料から小田・信太・豊田・岡見氏が連合しており、これに臼田氏が与していることがわかるが、臼田氏と密接なつながりをもった土岐氏が小田氏に従っている以上、臼田氏も小田氏に従っていたのであろうと思われる。そこであらためてこの史料の年代推定であるが、豊田氏の滅亡する前でしかも木田余城の信太氏が小田氏に滅ぼされる前ということになり、おそらく永禄末年のことと推定される。そしてこの連合は元亀から天正初期に至っても継続し、佐竹・多賀谷氏の南下に対応していったものと考えられるのである。
Ⅳ-10図 信太総可書状(江戸崎町 臼田喜平氏蔵)