蛇沼合戦

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「多賀谷七代記」には蛇沼合戦の様子が記されている。以下、それをまとめてみよう。
天正四年(一五七六)の秋、多賀谷重経は豊田治親を攻めるべく譜代の臣をあつめ評議を行ない、翌天正五年の春、これを家臣に触れたという。一方、豊田方では多賀谷勢を迎え撃つことにして、豊田将親の策により、蛇沼の西へ落し穴を掘り、そこへ多賀谷勢が落ちた時に観音の森から攻めるという戦法をとろうとした。観音の森とは前掲のⅣ-7図⑨~⑪のところ、現在の長楽寺の辺であり、その西にかつてひろがる沼を蛇沼とよんでいたという。
 多賀谷重経は三月五日、一〇〇〇の兵を率い豊田に向ったが、先陣の中に虎蔵・熊蔵という「悪僧」がいた。彼らは長さ八尺、太さ一尺の鉄棒をもって門や塀を破ることが得意であり、人々から「商売金坊」とよばれていた。鉄棒をもって金銭を稼ぐためそのように呼ばれたのであろうが、彼らは蛇沼で戦死したという。そして豊田方は小田氏の援軍をえて、激戦の末、ついに多賀谷勢を敗走させたという。
 その後、多宝院の南山和尚と豊田竜心寺の住僧の仲介によって豊田・多賀谷両氏は和睦したといい、また戦勝祝として豊田治親は観音堂を再建し、寺領を与えたという。
 

Ⅳ-11図 蛇沼周辺