豊田治親の暗殺と豊田落城

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再び「多賀谷七代記」に記されている豊田治親の暗殺とそれにつづく豊田城の落城についての顚末をまとめておこう。
 天正六年の春、多賀谷重経の臣白井全洞と豊田治親の臣飯見大膳正は、ともに「雷ノ宮」へ参籠し好を通じ、その後婚姻をもって両者は結びつき、ついで白井全洞は「豊田兄弟ノ領地」の宛行を条件に、飯見大膳正をそそのかし、豊田治親を暗殺させたという。「多賀谷七代記」には「天正六年五月三日ノ夜、主君治親公を密ニ討奉ル」とある。治親の首実検をおえた多賀谷重経は、飯見大膳正を殺し、その首を「大宝ノ堤」へさらし、通行人に見せたという。
 豊田治親と飯見大膳正が殺されたことによって状況は一変する。豊田城には治親の弟将親が入り、旧臣たちを集めて籠城したため、白井全洞は数日にわたってこれを攻めたが、落城しないので、天正六年の夏、満水となった鬼怒川の土手を切り崩し、豊田城を「水責め」にして落城させたという。豊田将親ほか百人余りの旧臣は自害し、また治親夫人は東弘寺へ入り出家して豊田一族の菩提をとむらったという。
 これらの話がどこまで真実かは不明である。しかし、たとえば治親の暗殺という事件をみるとき、この話は単なる飯見大膳正の個人的な動機にとどまらず、豊田氏内部に大きな問題があったことを示していよう。すなわち、その問題とは、おそらくめまぐるしく変わる政治状勢のなかで豊田氏が、このまま小田氏と与していくか、あるいは小田氏と断って多賀谷氏と結ぶか、という政治的方向の模索を基因とする、給人たちの対立があったということであろう。
 「多賀谷家譜」によれば、すでに天正二年には古間木城の渡辺周防守が、多賀谷重経の指示に従っていたことがわかる。こうしたことから治親の死は、実に豊田氏内部における「多賀谷派」の勝利だったのである。