豊田一族・給人たちのゆくえ

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豊田落城によって、豊田一族がどうなったかは明らかでない。前述のように治親の死後、弟の将親は豊田城に籠城し、多賀谷勢の水攻めによって落城、将親は自殺、治親夫人は東弘寺に入り、仏門に帰依し一族を供養したという(「多賀谷七代記」)。
 ただ豊田からはなれた、現在の埼玉県草加市や三郷市の一部に豊田姓がみられ、あるいは豊田落城後、落人としてその地にやってきたのではないかと思われている。
 それでは給人たちはどうしたのであろうか。この点についても多くは不明である。おそらく、ある者は多賀谷氏から知行をうけて給人となり、ある者は帰農していったと考えられよう。元禄年間に作成されたといわれる「多賀谷氏譜代覚書」(「元禄家伝文書」『関城町史史料編Ⅲ』)には、つぎのような記載がある。
 
  多賀谷譜代之覚
  (略)
   絹川豊田侍
    袋畑右京助 定楽寺 行田(ナメタ)宮内  唐崎新六  伊古立将監 豊田  肘屋小次郎 桐ケ瀬
    坂寄
  (略)
   絹川西豊田・岡田両庄之侍
「多門天 大願人 千卅坊 照勝坊 持国天 松崎伊□皆葉豊後 中川摂津
  晋主 天中天 迦陵頻伽声
 
                    大旦那 吉原豊前
   八幡大菩薩 大行事 文殊師利菩薩 木村越後     新井相模
         小行事 普賢菩薩   新井五郎左衛門尉 小林越前
                    小林若狭 高田大隅
 
       ―〓礼 此外石毛同俗男女等
                    増長天 慶長廿年乙卯正月吉日」
    大久保豊後 石川治部  菊地[本名赤松]民部 古沢佐渡  渡部十兵衛 小野里対馬 堀中越前 
    古沢隼人 同周防  同弾正  同[本名赤松]新右衛門 田中九之助 横関  秋葉吉右衛門
    秋場掃部 横田九兵衛 渡部周防 江戸宮内 石塚左京 浅野兵庫 草間治部 [横曾根住]羽生式部
    報恩寺 [絹川東]秋葉縫殿 [楢戸住]土田隼人
(略)
 

Ⅳ-12図 石下八幡宮棟札

 この史料ははじめに多賀谷譜代給人のうち四天王、家老、侍大将、客分が記され、つづいて「絹川豊田侍」さらに一家、関侍のつぎに「絹川西豊田・岡田両庄之侍」とみえている。「絹川豊田侍」の諸氏は前述のように文明年間に多賀谷氏に従っていたが、「絹川西豊田・岡田両庄之侍」の諸氏のなかには、豊田氏の給人だったものもいたであろう。
 また、石下八幡宮に伝えられている慶長二十年=元和元年(一六一五)正月吉日の棟札には「大旦那」吉原豊前のほかに木村越後、新井五郎左衛門尉・小林若狭・新井相模・小林越前・高田大隅・松崎伊□(豆カ与カ)・皆葉豊後・中川摂津などいかめしい名前が記されている。石下八幡宮社殿の造営にかかわった人々であろうが、彼らはおそらく村の有力農民たちであり、年代的にいってあるいは帰農した豊田氏の給人たちの後裔にあたる人々であったろう。豊田氏給人の後裔たちは以後江戸時代を通じて連綿とたくましく生きぬいていくのである。