去るものと根づくものと

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天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉は全国統一の過程で、多賀谷重経に対し養嗣子宣家(佐竹義重の子、義宣の実弟)を佐竹氏に仕えさせ、実子三経を結城氏に仕えさせることを命じた。これは多賀谷氏内部に、佐竹派と結城派という派閥が形成されていたことが前提であったという。三経は前年より岡田郡若郷(現八千代町)の島城(和賀城)にいたが天正十八年には同郡大田郷の大田城に移り、岡田・豊田・下猿島郡を支配した。したがって石毛地域は大田多賀谷氏の支配を受けるようになったわけである。その後、慶長六年(一六〇一)結城秀康が越前国北ノ庄(福井市)へ転封になると三経は同国柿ケ原で三万二〇〇〇石を与えられた。
 一方慶長七年佐竹義宣が出羽国久保田(後の秋田)へ転封になると、宣家は同国檜山で一万石を与えられた。また重経は下妻を出て各地を転々とし元和四年(一六一八)、近江国彦根で没したという(『下妻市史』)。こうして多賀谷氏の転出とともに、同氏と石下地域とのつながりも切れることになる。「多賀谷家譜」や「多賀谷七代記」の成立は、前述したようにこの後、ややたってからのことであった。
 ところで町内崎房の秋葉光夫家には、つぎのような文書が伝えられている。
 
  官途之事、成候者也
      天正十五
                       (多賀谷重経)
        正月廿日            (花押)
         秋葉大膳殿
 
 この文書は天正十五年正月二十日に多賀谷重経が秋葉大膳に対し、「大膳」という官途名を与えたものである。秋葉光夫家の系図・伝承によれば同家は戦国期、明貞の代に結城氏の「客分」となって尾崎(現八千代町)に築城し、そこに住み、以後、明重(大膳)、信明、重光、常光(大膳)とつづくが常光の時、慶長五年の関ケ原合戦に際し石田三成に与したために、浪人となり五〇余人の配下を伴い崎房に土着帰農し「郷士」となったという。またさきの文書を伝えているところから秋葉家は結城氏の「客分」から、多賀谷氏の給人となったものと考えられる。
 

Ⅳ-13図 多賀谷重経判物(秋葉光夫氏蔵)

 そしてこの秋葉家こそ、江戸中期におこなわれる飯沼干拓の中心者の一人でもあった崎房村名主三太夫家である。こうしたことから考えれば、石下地域にとって慶長五、六年こそ、いわば去りゆく者(中世)と根をおろす者(近世)の明確な交代期=中世の終焉だったのである。