もう一つの豊田氏

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ところで、佐竹氏の給人の中に豊田氏がいる。史料の概要を示してみよう。
 
 (一) 弘治三年(一五五七)三月吉日付の「甲明神奉加帳」(甲神社文書)に「〓十 豊田隼人佑」とみえる。
 (二)「佐竹譜代記録」の「近習ノ衆」のうちに「豊田 豊田牢人ナリ」とある。
 (三)「天正五年(一五七七)十一月三十日付の佐竹義重書状(「秋田藩採集文書」)によれば、豊田和泉守子息
   が小田部某の名跡を相続することを認めている。
 (四) 秋田藩士豊田氏の「系図」によれば、藤原姓と平姓があり慶長七年、常州よりの来住が記されている。
 
 以上が佐竹藩士豊田氏と常陸に関係する史料である。これによれば、この豊田氏は、(一)にみえるように弘治三年の段階で、確実に佐竹氏に仕えていることがわかる。また豊田氏は(二)によれば、もとは「牢人」であった。戦国期佐竹氏の家臣団は「庶子家」「譜代」「外様]「牢人」に分けられており、そのうち「牢人」とは没落したり、佐竹氏に従うようになった大名や豪族の旧臣だった者が多いという。すでにみたように、豊田氏が佐竹氏に仕えているのは、遅くとも弘治三年以前であることがわかり、豊田城の豊田氏が滅ぶのが天正六年であるから年代的に両豊田氏はつながらないことになる。しかし、前述のように佐竹藩士豊田氏には藤原・平姓の二系統があるようであり、しかも秋田転封の際にしたがった平姓豊田氏のなかに政胤なる人物がみえている(『佐竹家臣系譜』)。そこで弘治三年の「甲明神奉加帳」にみえる豊田氏を、かりに藤原姓豊田氏と考えれば、この平姓豊田政胤を滅亡した豊田一族の系統と考えられたくもない。さきの政胤の「政」は、豊田城の豊田氏を想像させるが、どうであろうか。いずれにしろ今後の検討課題であろう。