草加の豊田氏

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豊田城が多賀谷氏の攻撃によって落城した際に、治親の妻子が草加柿木に逃れたという伝承がある。草加柿木の豊田家の系図によれば、この地の豊田氏の祖は、はじめ姓を善積と号し、源義家に従い奥州に合戦し、惟斉は保元・平治の乱に功をなしたという。家斉は源頼朝に従い、豊田の地を領したという。忠斉の代に豊田郡に住し、斉胤の代には豊田氏を称した。斉胤の代には豊田に城を築き豊城と称した。斉久は鎌倉公方の足利持氏に仕え、安秀の時に滅亡し、妻子が草加柿木に落ちてきて土着したというのである。人名をはじめ石下の豊田氏に関するものとはまったく異なる伝承を持っているのである。すでに第二節第三項で述べたことだが、「多賀谷七代記」によれば、豊田治親が多賀谷氏に攻められ、自害した後に、夫人は東弘寺に入り、出家して、その一族の菩提をとむらったということであるが、草加柿木の伝承では、豊田氏の滅亡の時の城主は豊田安秀であり、その妻子が草加柿木に落ちてきて土着したというのであり、ここにおいても、まったく異る説話を伝えているのである。