蔵持城は石下駅の南西ニキロメートル余に位置する、西方に突出した舌状台地を利用して造られている。舌状台地の東、北、西は水田(往時は沼)で、台地上との比高は七メートルある。現在、台地上を道路が東西に走っている。
V-7図 蔵持城跡実測図
遺構として明瞭なのは、この道路の北側にある渡辺氏宅の裏手(北側)の土塁と空堀である。空堀は台地の北側斜面を起点として南北六〇メートルほどある。北側斜面に接する部分は急な竪堀になっているが、南に行くに従って浅くなり、やがて消滅する。土塁は空堀が浅くなったあたりからはじまり、空堀と平行に走るが、これも途中で消滅する。この土塁が空堀の西側にあることから、土塁の西側が城内側と認められる。土塁の高さは一メートル前後である。なお竪堀の西側に土塁がないのは、竪堀さえ深く掘れば高い土塁は不要であると判断したためであろう。また竪堀の東側には沢があるが、この沢と竪堀の境目に土塁状の仕切りがある。
聞き取り調査によれば、以上の空堀と土塁の防御線は、往時は更に南方に延び、台地を完全に遮断していたというから、全長二〇〇メートル近くあったことになる。この防御線の西側、すなわち台地の先端までの五〇~六〇メートルの間が、ひとつの曲輪になる。すなわち蔵持城は舌状台地の先端部分を利用した城ということになる。一方、防御線の東方の台地続きには、明瞭な遺構は認められない。ただ防御線の東方五〇メートルほどのところにある香取神社の裏手(北側)の台地の縁の一部が、堀切で切断されて塚状になっているが、これは、同所にあった等岳院の鐘楼の跡という。