浄土宗寺院の展開

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時宗とともに浄土系の宗派としては浄土宗がある。石下地域の近くでは飯沼に弘経寺がある。この弘経寺(現水海道市)は横曾根城主の羽生経貞とその一族の外護を受けた浄土宗中興の祖了誉聖冏の弟子の嘆誉良肇によって応永二十一年(一四一四)に開かれた。開創以来、鎌倉光明寺・瓜連常福寺とともに関東における浄土宗の中心寺院として多くの門弟を養育してきた。天文七年(一五三八)三月には後奈良天皇より勅額を受け、勅願所の綸旨を受けているが、天正のはじめの九世檀誉存把の代に、下妻多賀谷氏と小田原北条氏との間で戦となり、伽藍を焼失してしまい、存把は弟子とともに多賀谷重経を頼り、下妻に寺を建立したが、住持存把が助命嘆願した多賀谷の家臣の浜名因幡という人物を、重経が約束を破って処刑してしまったので、存把は結城秀康のもとに行き、その外護を受けて文禄四年(一五九五)に弘経寺(現結城市)を開創した。慶長年間(一五九六~一六一五)には飯沼の弘経寺も再興され、小金東漸寺(現千葉県松戸市)七世の照誉了学が住持に招かれている。了学は徳川家康の娘千姫に五重相伝を授け、同寺は彼女の菩提寺ともなり、幕府の保護も受けて、浄土宗のこの地域の有力寺院・学問寺院となっている。なお、同寺開山の良肇は大鹿氏の外護を受けて、やはり応永年間(一三九四~一四二八)に白山(現取手市)に弘経寺を建立しており、七世代まで飯沼の弘経寺と同じ人物が住持となっており、了学も住持に就いており、新弘経寺とも称されている。これら飯沼・結城・白山の弘経寺を合せて「三弘経寺」といわれる。
さて、この飯沼の弘経寺の末寺が石下地域に二か寺存在する。西福寺と東源寺である。
 西福寺は新石下にある。同寺はさきにも記したように再興された飯沼の弘経寺に一〇世として入った照誉了学が開山となって、寛永九年こ(一六三二)正月二十五日に開創された。この開創に際しては小口孫兵衛という人物が尽力して開基となっている。これ以降の同寺は、この地域の住民の菩提寺として存続していくことになる。
 東源寺は東野原にあり。山号は用柳山と称する。その歴史は不明であるが、寛永九年(一六三二)成立の本末帳である
 「浄土宗諸寺帳」(『江戸幕府寺院本末帳集成』)に西福寺とともに飯沼の弘経寺の末寺として記載されているので、それ以前の成立であることが知られる。また、開山は鉄山和尚と伝えられている。
 

Ⅴ-10図 石下町内の寺社


Ⅴ-11図 西福寺