Ⅴ-12図 法輪寺
法輪寺は般舟山法輪寺密蔵院といい、向石下の畑中というところにあるが、向石毛城の跡にある寺院として知られている。「過去帳」の記載によれば、はじめは法相宗の寺院で、七代の住持が出たが、その後、天台宗に改宗された。天台宗としての開基は源祐法印という人物で、それ以降は一八代の住持が続いた。その後、同寺はかなり衰微し。小規模になったらしく、平僧(低い地位の僧)が一七代つづいた。しかし、三五世には甚栄権大僧都が住職に就いたというから、再興されたらしい。三八世の昌山伝海の死没年が享保四年(一七一九)なので、江戸前期の再興であるらしい。おそらく、現在地の城跡に移転してきた時であろう。それ以前の場所は不明であるが、向石毛城からそう遠くない位置にあったものと考えられる。また「過去帳」には、同寺は向石毛の畑中の城主、すなわち、この向石毛城の城主であったという館武蔵守宣重の菩提寺であると記されている。城跡に移転してきた折に、以前の城主であったという館宣重の菩提をも弔うことになったのか、戦国時代当時から館氏と関係の深い寺であったのかは不明であるが、おそらく、以前から向石毛城とは、何んらかの関係があったものとみてよかろう。現在は向石毛城跡の中の「御殿」というところにあるが、城跡や館跡が江戸期になって寺院が移建されてくるという例はよくみられることであり、同寺の場合も、この地域の村民の菩提寺として城跡に移建されてきたものとみることができる。
また、どこまでが事実かはわからないが、別の伝承かある。この向石毛城には館武蔵守という人物がいたが、天文年間には多賀谷氏に攻められ滅亡させられた。その子の播磨(はりま)は母方の渡辺氏に養われたが、のちに出家して城跡に法輪寺を建立したというのである(新井省三編著『趣味の結城郡風土記』)。
なお、この法輪寺の境内および周辺には、「御殿」「御殿前」「大手」「西館」などの城に関する地名があり、土塁なども残っている。また、近くの弾正台というところは隣接の館あるいは郭として機能したであろうことはすでに本章第一節で述べたとおりである。
歓喜寺は古間木にあり、古間木城跡の近くにあり、修光山法満院歓喜寺と称する。開山は法満上人であると伝えられている。現在は、寺の西北に隣接して熊野神社があるが(後述)、同社の別当寺でもあった。同社は江戸期に将軍家より朱印地を認められているほどの神社であるから、中世以前から存在した神社であることが考えられるが、歓喜寺も古くから別当寺であったものと思われる。ただし、歓喜寺と熊野神社は当初から現在地にあったのではなく、以前はより鬼怒川の近くの宮内(みやうち)というところで妻亡沼(つまなしぬま)の傍に存在したといわれている。現在地に移転したのは江戸中期の正徳元年(一七一一)であり、享保六年(一七二一)になってはじめて檀家を持つようになったといわれている。それは飯沼開発により新しく居住するようになった人びとであった。それ以前は熊野神社の別当寺を勤め、村民に対しては祈願寺としての役割を果していたものと考えられる。
なお、歓喜寺と同寺がもとあった場所の近くの妻亡沼との間には二つの伝承がある。一つは、その昔、国司の妻を弔ったところであり、そこに建立されたのが歓喜寺であるという伝承である。もう一つは、古間木の村民に「おつま」という女性かおり、大生郷のある家に下女として働いていたが、古間木と大生郷との間に土地争いが起り、古間本が訴訟に負けそうになったので「おつま」は奉公先から証拠となる情報を手に入れ、古間木村に流して自分は自殺した。その「おつま」を供養したのが歓喜寺であり自殺した沼を「ツマナシヌマ」と称するようになったという伝承である。同寺東の善福寺共同墓地には、その「おつま」の墓塔がある。元禄四年(一六九一)二月十八日に一九歳で死没しており、施主は稲葉与惣兵衛となっている。「おつま」は古開木の稲葉家の娘であり、大生郷の名主であった坂野伊左衛門方へ、奉公に出ていたともいわれている。
また、本尊の阿弥陀如来が伊達氏の守本尊であったとされ、同寺には伊達行朝の黒印状が存在したという。
Ⅴ-13図 歓喜寺
善福寺も古問木にあり、歓喜寺の東方三〇〇メートルばかりのところにある。寺伝によれば、慈覚大師円仁(七九四~八六四)の開創にかかるとされるが、古代・中世における歴史は、そのほとんどが不明である。同寺の「過去帳」の歴代住持が書かれている部分をみると開山は秀海となっており、本寺安楽寺の三九世である。また、この「過去帳」には、天正四年(一五七六)三月七日に八〇歳で死去した「宝徳院殿前備州元義忠山居士」という渡辺氏の戒名が記載されている。この渡辺氏は、この古間木城の城主として多賀谷氏と戦って敗れた人物として知られるが、この「過去帳」の成立が天保二年(一八三一)であるので、その信憑性が問題となる。いまはこの「過去帳」の記載のみを示しておくにとどめる。
Ⅴ-14図 善福寺
現存する天台宗寺院としてはいま一か寺存在する。豊田に存在する長楽寺である。同寺は現在は蛇沼の観音堂と一体となっているが以前は、もう少し南方に位置していた。江戸前期の観音堂再建の棟札(貞享四年)によると、観音堂の別当が長楽寺であり、安楽寺が入仏の導師を勤めているので、長楽寺の本寺であることが理解できる。のちに長楽寺は別当を勤めていた観音堂に移転したことがわかる。すなわち、現在の長楽寺は、もともと馬頭観音堂の境内地であり、本堂となっている堂は、観音堂であった。
この観音堂には、貞享四年(一六八七)正月十七日付の棟札が残っている。これによれば、この時に堂が再建されている。したがって、それ以前から堂が存在したことが知られる。おそらく、戦国期には存在したのではなかろうか。貞享四年の時には、村民たちが協力しあっての建立であった。村民の名をみると、つぎの一五名である。
(上段)中山助左衛門
中山庭左衛門
新川加兵衛門
同名甚左衛門
同 伝兵衛
(中段)秋田作左衛門
同名新右門
長瀬清三郎
小嶋忠左衛門
同名弥右門
(下段)猪瀬権左衛門
塩野谷新五兵衛
須藤徳左衛門
角田吉兵衛
石嶋惣右衛門
これらの人びとは、再建の費用を出すことができ、村の運営ができるだけの力を持った村民であったものと考えられる。
Ⅴ-15図 観音堂本尊と貞享4年の棟札部分(村人の名がみられる,長楽寺蔵)
こうして観音堂は再建され.村民の信仰を集めていたが、明治三十五年九月二十八日の台風により倒壊している。しかし、三十七年三月三十一日に再々興され(観音堂再建棟札)、存続したが、屋根が壊れてきた。そこで修復しようとしたが、小貝川の茅も少なくなり、ついに瓦葺に替えたのであった。昭和三十八年十一月二十六日のことであった(「観世音堂屋根替修築棟札」)。
また堂内には、享和三年(一八〇三)十一月吉日再興の台座銘を持つ、馬頭観音立像が安置されている。
石下町内所在ではないが、皆葉(現千代川村)の無量院は、皆葉・五箇・下栗・原新田(以上現千代川村)、粟野(現八千代町)等をはじめ、崎房・孫兵衛新田・鴻野山・岡田・国生などの石下町内にも多くの檀家を持つ寺院である。同寺は薬樹山東漸寺無量院と称し、行基の開創にかかるという伝承を持ち、また、白鳳十四年の成立であるという寺伝を持つが、詳しいことは不明である。
その後の歴史も不明であるが、江戸期には朱印地七石を受け、黒子子妙寺の末寺として「上総国・下総国天台宗寺院名前帳」に記載されているので、中世以来、千妙寺系の寺院であったと考えられる(『江戸幕府寺院本末帳集成』上巻八〇一頁)。同寺所蔵の「明細書上」明治三十年成立)によれば行基作という薬師如来を安置する薬師堂が秀順の代の延宝二年(一六七四)二月八日に建立され、貞享四年(一六八七)四月八日には三〇世の亮海によって薬師如来の厨子が作成されている。この亮海は少し前の貞享元年には同寺の過去帳も作成している。本寺千妙寺にも二六世に亮海という人物かおり、正徳五年(一七一五)から享保四年(一七一九)まで千妙寺に住持としていたことが知られる。両者は同一人物ではなかろうか。その後、正徳五年五月に火災に遭っているが享保八年十月に再興されている。明治十九年(一八八六)二月にも火災に遭い、翌年の同二十年一月には仮本堂が成立している。なお、「無量院世代調写」(成立年不詳)の末尾に、同寺の末寺としては栗山仏性寺・仁江戸薬王寺・原大聖院、門徒寺院としては皆葉妙覚院・若宮戸等覚院・国生不動院・崎房東光院・同東性院・同自性院・仁江戸不動院・粟野泉福院・粟野新田法性院・五箇放光院が記録されており、石下地域にも末寺・門徒寺院を抱えていたことが知られる。
Ⅴ-16図 無量院(千代川村)