真言宗寺院の展開

298 ~ 299 / 1133ページ
石下地域周辺の真言宗は筑波郡神郡の普門寺系統の展開が顕著である。この普門寺系の勝善院が村岡(現千代川村)から現在地の鎌庭に移転したのが永禄二年(一五五九)のことであったという(『結城郡郷土大観』)。
 江戸期に成立した本末帳(本寺・末寺の関係を記録したもの)をみると、この鎌庭の勝善院の末寺・門徒として記載されているのが石下地域の寺院では、末寺としては鴻野山の水生寺・若宮戸の明蔵院、門徒としては小保川の光明院・鴻野山の南蔵院である。これらのうち寺院として現存するのは、水生寺と光明院である。
 

Ⅴ-17図 水生寺


Ⅴ-18図 光明院

水生寺は鴻野山にある真言宗豊山派の寺院で、山号を臨沼山という。同寺の「過去帳」の巻頭の記載によれば、元禄十年閠二月二十五日、看勝という一九歳の僧侶によって再建されたことが知られる。しかし、それ以前の歴史につては、まったく不明である。
 光明院は小保川西坪にある真言宗豊山派の寺院である。同寺は、はじめ下妻の多賀谷家植によって享禄年間(一五二八~三二)に今泉(現下妻市)というところに建立された。ところが、天正年間にかなり衰微したらしい。江戸期の万治年間(一六五八~六一)に至り、五世の文惟房宥賀法師の代に、もと多賀谷氏の家臣であったという武笠氏とともに計画を立て、現在地に移転してきたといわれている。なお、同寺は明治維新の廃仏毀釈の際に廃寺の危機にさらされたが、明治八年(一八七五)に認可を受けて再興されている。
 これまで、神郡の普門寺系の鎌庭勝善院の末寺であった水生寺と光明院についてみてきたが、このほかに石下地域には尻手(現下妻市)の文殊院の末寺であった西浄坊という真言宗寺院がある。同寺は左平太新田にあり、飯沼の新田開発にともない建立された真言宗豊山派の寺院である。なお、仏像は左平太新田の公民館に保存されている。