興正寺門派の展開

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これまでみてきたような背景の中で本石下に興正寺が一五世紀後半に再興され、曹洞禅が進出してきたのであるが、同派は興正寺を拠点に、豊田氏との関係を中心に展開を遂げていくことになる。上郷(現つくば市)の上郷山宗徳院は寺伝によれば、小貝川の東側にある長峰城を拠点とした上郷の右近将監正次が文明十一年(一四七九)に寺院を建立し、即徳院と称したという。はじめは長峰城の近くにあったようであるが、永正八年(一五一一)に上郷の現在地に移転し、宗徳院と改称したという。開山には本石下の興正寺二世の洞然正徹が招かれている(宗徳院蔵「七ヶ寺院洽革綱領」明治三十年成立)。なお、同寺の檀越である右近将監正次は位牌によれば明応三年(一四九四)五月十二日に没しているが、豊田氏の一族であるという説もあり、また、長峰城は豊田氏にとって多賀谷氏の南進を防ぐための、拠点の一つであったともいわれている。
 ところで、洞然正徹が同寺に招かれたのが、文明十一年の段階なのか永正八年の段階なのかは不明であり、長峰城の近くから移転したのも、永正八年に相違ないのかなどのこともよくわからない。しかし、いずれにしても、豊田氏と密接な関係にあり、長峰城を拠点としていた人物が、文明十一年~永正八年ごろに建立された寺院に、本石下の興正寺二世の洞然正徹が開山に招かれていることに相違はない。
 この洞然正徹はやはり上郷にある随翁院の開祖にもなっている。随翁院は現在は宗徳院の近くに存在するが、同寺ははじめ寛正六年(一四六五)に養山良育という僧侶が開山となって、小貝川東側の金村の山下というところに開創された。同寺を建立したのは豊田氏家臣の坪井宗信であるという。永正十年(一五一三)に現在地に移転したが、火災により伽藍を焼失してしまったので、興正寺二世の洞然正徹を開祖に招いて再興したというのである(「七ヶ寺院沿革綱領」)。同寺がはじめに存在した金村の西の山下というところからは、人骨や五輪塔が出土したという。金村の地は、小貝川を挟んで豊田城と向き合っており、豊田氏と密接な関係にあった金村別雷神社などもあり、同氏にとって重要地点であった。また移転後の上郷の地もやはり、小貝川の東側に位置し、同氏にとって、重要な地点であることに相違ない。洞然正徹が豊田氏家臣の坪井氏建立の由緒をもつ随翁院の開祖となったのも、興正寺と豊田氏との関係からであるに相違ないことはいうまでもない。
 以上の二か寺のある上郷は豊田からみて小貝川の対岸に位置し、両寺の関係の長峰にしても金村にしても、南と北に少し寄った所にあるにすぎない。しかし、つぎの興正寺三世が開山となった寺院は、小貝川の対岸ということでは同様であるが、もう少し、南北に離れた場所に位置することになる。
 

Ⅴ-20図 曹洞宗東昌寺・興正寺関係系図

 本石下興正寺三世の曹室慧洞は高須賀(現つくば市)の永興寺の開山になっている。永興寺は寺伝によれば、天長二年(八二五)に天台宗の明室伝宗が高須賀字高城寺に開創したことにはじまるとされるが詳しいことは不明である。その後、廃寺同様になっていたのを大永六年(一五二六)二月に興正寺三世の曹室慧洞が現在地に寺を建て、永興寺と号したという。 なお、同寺の薬師如来は近隣の人びとの信仰を集め、その縁日は若い男女の交際の場となったことから「高須賀の色薬師」として知られたが、この薬師如来は近くにあった天台宗浄国寺の本尊であった。浄国寺は廃寺となったらしいが、同寺の梵鐘(永興寺にあったが第二次世界大戦時に供出)の銘文(延宝七年成立)から知ることができる。それによれば延宝七年(一六七九)には浄国寺が存在し、梵鐘を鋳造するほどの力を持っていたことが知られる。
 さて、曹洞宗として再興された永興寺であるが、特定の檀越が伝えられてないところをみると、この地域の不特定多数の民衆の助力を少なからず得ての建立であったということになろう。
 曹室慧洞は吉沼(現つくば市)の大祥寺の開山にもなっている。同寺は享徳三年(一四五四)二月に禅庵□吉入道という人物が田倉村の薬師原というところに尾花山金西院祥庵寺(真言宗であったという)を建立したことにはじまる。永正元年(一五〇四)には豊田氏の家臣の藤原清知が吉沼に城を築いたと伝えている。同寺とも浅からぬ因縁が生じたことであろう。天文二年(一五三三)に原外記という人物が寺地を現在地に移し、吉沼山金西院大祥寺と改称し、興正寺より三世の曹室慧洞を開山に招いて曹洞宗に改宗したといわれている(同上書)。藤原清知は豊田氏の家臣であり、原外記も多賀谷氏と戦って滅亡させられている人物であるから、豊田氏と連係して行動していた在地領主であったことが理解できる。したがって、曹室慧洞が大祥寺の開山になったのも豊田氏との関連の中での進出であったことが知られよう。
 興正寺四世の広室祖陽は下栗(現千代川村)の法光寺の開山となっている。同寺は文亀元年(一五〇一)二月の成立で、もとは西寺山というところにあり、密教寺院であったという。開基は下栗城主常楽寺氏の建立といわれる。開山は興正寺四世の広室祖陽であるが、いつの時代に現在地に移ったのかは不明である。しかし広室祖陽が死没したのが、天文十九年(一五五〇)五月十三日であるので、それ以前であろう。彼が開山として住持に就いたころの常楽寺氏は下妻のすぐ南に位置していたことから、早くから多賀谷氏に従っていたようであるが、その当初は多賀谷氏に敵対したに相違ない。したがって、曹洞宗に改宗される当時の常楽寺氏は多賀谷氏に組してはいたが、微妙な立場にあったのではなかろうか。そこで、豊田氏と関係の深い興正寺から開山を迎えるに至ったものと思われる。それに、法光寺には多賀谷氏と戦った際に置き忘れたという蟠竜の旗を秘蔵しているところをみると、同寺が豊田軍の陣地となっていた時期があり、同氏の館のような役割を持だされていた時があったことを示しており同寺は豊田氏と無縁ではなかったことを示しているのである。
 

Ⅴ-21図 曹洞宗展開図

 興正寺五世の伝翁尖甫は山田(現三和町)久昌院の開山となっている。これまでの展開が、豊田の対岸、その南北、豊田の北であったのに対して、久昌院は西北に位置する。久昌院は天文十八年(一五四九)正月に小山朝政と戦って死んだ、山田大蔵忠政の菩提を弔うために叔父の山田三河守が建立し、同年九月十八日に興正寺五世の伝翁尖甫を開山として招いたことにはじまるという(「益葉山久昌院続交代記」)。同寺はもとは山田城の西北にあったとされるが、現在は東方にある。
 これ以降では興正寺六世の明南宗哲(文禄元年九月十五日没)が高須賀の霊鷲庵の開山となり、八世の隻室盛嬾(貞享三年五月七日没)が本石下の玄法庵や石毛庵の開山となっているが、いずれも現在は廃寺となっている。なお、江戸中期に成立した本末帳によれば、豊田の永芳庵が興正寺の末寺として記録されているが、この寺も廃寺となっている(『延享度曹洞宗寺院本末牒』)。明南宗哲が開山した霊鷲庵以降に成立した興正寺の末寺はいずれも廃寺となっており、成立当初から小規模なものであったのであろう。興正寺門派の展開は豊田氏との関係を中心に、一五世紀末から一六世紀中葉ごろまでの展開が、本格的なものであったといえよう。