Ⅴ-22図 興正寺
江戸期に作成されたと考えられる位碑には「当寺開基」として政家夫妻の法名が記載されているので、石毛城主であったとされている石毛(豊田)太郎正家が、戦国末期から江戸初期にかけて、同寺と深くかかわっていたことは事実であったろう。
貞享二年(一六八五)に鋳造された梵鐘に刻まれた銘文によると、江戸初期の住持であった八世の隻室盛嬾の代には諸堂が整備されていたとあるから、隻室が再興したのであろう(「下総石毛山興正寺鐘銘」、『苜洞宗全書』金石文類)。しかし、寛文五年(一六六五)夏の落雷により全焼してしまっている。そこで、延宝六年(一六七八)の秋に一〇世として住持に就いた鳳山春桐は伽藍諸堂を復興し、貞享二年には、やはり落雷の時に失った梵鐘を再鋳している(同占。なお、石毛太郎政家の援助は鳳山の代のことであるという伝承もあるが、鐘銘には吉原氏の名のみがみえるだけで、石毛氏の名はみられないので、石毛氏との関係があったとすれば、それ以前のことであったとみるべきであろう。また、落雷による焼失後は、九世交巌長泰の時であったが。有力檀越である吉原八右衛門との間に伽藍復興のための資金の運用や、後住の件をめぐりトラブルがあったようであるが、曹洞宗一宗の宗政を担当していた関東三か寺の決定により、交巌長泰は追放となり、一〇世の鳳山が入寺してきて、復興したのであった(「吉原八右衛門東昌寺宛訴状」延宝六年二月日、「末寺宗徳院・名主八右衛門訴状」貞享三年十一月、『安心院蔵海和尚志料』)。
安永五年(一七七六)に興正寺一三世として入寺したのが雑華蔵海という学僧であった。土浦の東光寺に退休していたところを請われての興正寺人寺であった。彼が安永八年五〇歳の時から天明六年(一七八六)までの八年間を費して、研究著述したのが「正法眼蔵私記」という道元著述の「正法眼蔵」の註釈書である。なお、彼は安心院村(現大分県宇佐郡)の生れであるところから別号を安心院と称し、安心院蔵海と通称され知られた曹洞宗の学僧であった。
また、さきにみた鐘銘によれば、同寺の傍にあった渡船場は商船や旅人で賑わったようである。しかも、住持には安心院蔵海のような人物が入っており、この興正寺は、この地域の文化の重要拠点の一つであった、とみることができよう。