桑原神社

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これまでにもいく度か述べられたが、国生という地名は、もとこの地に下総国の国庁があったことからきているという伝承があるが、その可能性は少ない。しかし、この度の町史編纂に際して、この地(本屋敷というところ)を部分的に発掘した結果、将門の活躍した一〇世紀前半の遣物は出土しなかったものの、それ以前の古墳時代から平安時代の八~九世紀中葉ごろの遺物が出土しており、古代の人びとが居住していたことが知られる。
 この国生の地に桑原神社がある。同社は岡田郡の式内社であり、古代より存在した神社である。「下総旧事考」一三によれば、祭神は天熊人命で、もとは鬼怒川の近くにあったが、江戸前半期の延宝六年(一六七八)に今の地に移転してきたという。香取神社と称されていた時期があったらしいが、宝暦年中(一七五一~六四)に古い棟札の銘文によって旧に復して「桑原神社」と改称したと記述されている。また。別当寺(べっとうでら)(明治維新期の神仏分離まではたいていの神社には別当寺があり、神社の祭礼の祈禱を行なっていた)は不動院といい、江戸初期の万治年中(一六五八~六一)の成立であったという。また、どこまでが真実であるかは疑わしいが、新井省三編『趣味の結城郡風土記』や伝承等によれば、桑原神社は下総守に任ぜられた桑原王によって、宝亀三年(七七二)に創祀されたことにはじまるとされ、はじめは鬼怒川右岸畔の谷岸古明神というところにあったが、延宝六年(一六七八)の在地住民の移居にともない現在地に移転されたという。農耕の神として住民の信仰を集めてきた社であり、遠い昔には平良持や将門父子も尊崇したといわれているが、今となっては知るよしもない。なお、明治四十二年(一九〇九)二月に日枝神社と佐田彦神社を合祀し、安産祈願の神としてとくに女性の信仰を集めている。
 

Ⅴ-26図 桑原神社