石下八幡宮

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豊田城に拠点を置いた豊田治親の弟である政重が石毛城を拠点とし、石毛次郎と称したのが天文年間(一五三二~五五)のことであったという。しかし、多賀谷氏のために天正六年(一説に天正三年)に豊田城が落るとともに石毛城も落ちた。その後、多賀谷政経の叔父経明の子の経光が拠点としたが、逆心のため、多賀谷重経に殺され、石毛城は廃城になったとされている。その城跡に建立されたのが本石下にある石下八幡宮である。同社の棟札によれば、慶長二十年(一六一五)正月吉日に創建されたことが知られる。大願人として記されている千妙坊・照勝坊については不明であるが、あるいは、のちの元禄十三年(一七〇〇)の造立の時の棟札にみえる別当寺の浄見院の僧侶か、その本寺の普門寺(現下妻市)の僧侶であろう。そして「大旦那」すなわち、この神社を創建するに際して経済的にも、その他の面でも中心になった人びとであるが、それには、吉原豊前・木村越後・新井五郎左衛門尉・小林若狭・皆葉豊後・松崎伊  ・中川摂津・新井相模・小林越前・高田大隅の一〇人の名がみえる。この外に「石毛同俗男女等」とも記されている。すなわち、ここに名を記している村の有力メンバーと、その外の石毛の人びとにより、村の鎮守が創建されたことを示しているのである。ここで注目すべきことは、「大旦那」として記されている人びとの名である。姓の下に「豊前」「越後」とか「五郎左衛門尉(ごろうさえもんのじょう)」などとみえ、武士的な名を持っていることである。これらの人びとの中には、戦国期における武士の系譜を引くような人びともいたものと考えられる。このような人びとが、江戸時代初期の村をリードしていったのであるが、それが鎮守建立の際の棟札にあらわれているのである。なお、同社は元禄十三年(一七〇〇)に再建されており、その際の棟札にも、「願主村中男女不残」と村民全体による建立であることを記しながらも、吉原八衛門・吉原勘兵衛・新井惣左衛門・堀越四兵衛・新井五良左衛門・中島忠左衛門・高田次良兵衛・松崎彦左衛門・松崎伊左衛門・中川彦衛門・木村利兵衛の名がみられ、これらの人びとが村の中心メンバーとして活動していたことが知られるのである。慶長二十年のものと比べると、小林・皆葉姓がみえなくなり、堀越・中島姓が新たに加わっており、その他の吉原・新井・高田・松崎・中川・木村姓は変っていないが、吉原八衛門と吉原勘兵衛が、一段上位に記されていることが注目される。なお慶長二十年の棟札でも、とくに上段に記されているわけではないが、「大旦那」の下に「吉原豊前」と記されており、以降、吉原氏が村中で中心的役割を果していたことが知られるのである。大工は市村安兵衛・塚原源衛門・市村吉兵衛・初沢久衛門であり、この建立に際しての祭りの導師を勤めたのは別当寺の天台宗浄見院の本寺の下妻普門寺であった。