中世以前の仏像

321 ~ 321 / 1133ページ
筑波山西南麓にひろがる県西地方に遺る最古の仏像には、結城郡八千代町栗山仏性寺の木心乾漆(もくしんかんしつ)如来坐像(像高五九・四センチメートル)がある。大略のかたちをケヤキの一材から彫成して木心とし、その上に乾漆を厚く塑形していた関東地方に伝わる唯一の木心乾漆像であり、横幅と奥行を充分にとって重量感のある躰貌を示し、衣文は鎬立って鋭く、平安時代初期、九世紀に遡る古像である。一〇、一一世紀の作例は現在見当らないが、平安時代末期、一二世紀に入ると造像活動は活発になる。下妻市肘谷四所神社境内観音堂の木造観音菩薩立像(像高一五四・八センチメートル、カヤ材、一木造、彫眼、素地)や、岩井市辺田西念寺の定朝様(じょうちょうよう)になる木造阿弥陀如来坐像(像高九七・六センチメートル、ヒノキ材、割矧造(わりはぎづくり)、彫眼、漆箔(しっぱく))などが代表的作例であり、当地方における観音信仰や浄土教のひろまりを示す彫像である。
 しかし、現在の石下町域に遺る中世以前の仏像は、本石下十一面にある十一面観音堂の行基(ぎょうき)作(民間布教にも従事した奈良時代の高僧。全国にわたって一木造の古像には行基作の伝承をもつ彫像が多い)と伝える木造十一面観音立像のみである。現状像高六九・八センチメートル、カヤ材と思われる一木彫成(いちぼくちょうせい)像で内刳(うちぐ)りもなく、抑揚なく直立する躰軀には量感があるが、条帛(じょうはく)や裳(も)の彫り口は浅く、制作年代は一二世紀頃と思われる。ところがこの像は現在面部が髪際下から両耳後にかけて、さらに両肩先以下も江戸時代の後補であり、しかも鬼怒川から流れついたとの伝承がうかがえるように像全体に木痩や朽損が多く、当初の像容が復元しにくいし、当初の安置場所もわからない。