中世の仏像

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一二世紀の末、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ、御家人たちの本貫の地である東国の文化も大きく様相をかえ、鎌倉を中心とする関東地方の彫刻史も一三世紀に入ると一変する。奈良興福寺に本拠をおいた奈良仏師、とくに運慶(うんけい)を中心とする慶派仏師たちの活躍であり、現世の安楽と未来の浄土を欣求する、あこがれの対象であった前時代の仏像に対して、現実の影がしみこんだ悲願の対象であり、苦しみや喜びを頒ち合う慰め主としての仏像の登場である。しかし、一三世紀のこの地方の彫刻史は現在のところ空白である。
 石下町域に遺る本格的な彫像は大房にある真宗大谷派東弘寺薬師堂の本尊、豊田氏の守本尊であったと伝える木造薬師如来坐像をもって嚆矢とする。この像は町史編纂のための調査中に、像内に元亨元年(一三三一)の造立銘はじめ、文明十八年(一四八六)、天文二十一年(一五五三)、承応二年(一六五三)などの修理銘が発見されたもので、鎌倉彫刻史における基準作品の新資料として注目される。
 像の胸前衲衣(のうえ)の襟までわたる首衲前面材内刳り部の造立墨書銘と、同箇所の文明十八年の修理墨書銘は、次の通りである。
 

(図)

 銘文の造立事情など史的考察は第二節に譲り、本節ではその作風についてふれることにしたい。
 像高六九・二センチメートル、半等身の像で、右肩に偏衫(へんざん)を着し、衲衣をまとい各衣端を両肩から上膊までおおってつけ、左手に薬壺(やっこ)をのせ、右手は掌(たなごころ)を前に向けて施無畏印(せむいいん)を示し、右足を外に結跏趺坐(けっかふざ)する通行の薬師如来像で、ヒノキ材をもちいた寄木造、玉眼嵌入(ぎょくがんかんにゅう)、肉身部漆箔(後補)、頭部および衣部彩色仕上げ(剝落)である。頭部は両耳の前を通る線で前後二材を寄せ、前面材は衲衣の襟に沿って胸前まで共木彫出とし、躰部に差し込む。躰部も躰側での前後二材矧ぎ内刳り、ただし像底は上底式に残し、両肩から地付にいたる躰側材も各前後二材を矧ぎ、両膝部も前後二材を矧ぎ寄せて内刳りを行なう構造で、これに各袖口、各手首を矧いでいる。前記の墨書銘のほか、像内背面材内刳り部に天文二十一年、両膝部内刳り部に承応二年のそれぞれ修理銘が記されており、造立や修理の願主、造立と修理の時を知ることができる。ただし造像仏師名は鼠穴のため判読できないのが惜しまれる。
 像の表現をみると、まず頭部では螺髪(らほつ)は各粒を大き目につくり、各々に旋毛を刻み、肉髻(にっけい)は低く、地髪部が張って髪際はゆるやかな波形となる。面部は面長で、眉は長くやや細目の鋭い両眼を刻んで写実的な相貌をみせ、肉身をおおう衣部は衣文を複雑に交叉させ、しかもかなり強い調子で表わすのが特色で、衣端が両肩から上膊までおおう形状や、頭部前面材が胸前衲衣の襟までわたる木寄せなどとともに様式も、鎌倉時代後~末期の作風を示し、造立銘の元亨元年とよく即応したものといえる。仏師名を知ることはできないが、単に制作年代のわかる基準作例にとどまらず、その造立事情にも注目されるものを含んでおり、史的意義においても重要な遺品であり、現状各矧目が剝離しているとはいえ、ほぼ当初の姿で現存することも貴重で、中世石下地方の文化史上第一級の文化財であろう。
 石下町域には本像以外に、中世まで遡る本格的な彫像はほとんど見出すことができない。近世に入ると、寺院ばかりでなく、「行屋」と呼ばれた場所などにも数多くの仏像が安置され、現在まで守り伝えられているが、江戸時代の仏像は彫刻性に乏しく、文化財として特色のあるすぐれた作例は少ない。