縦七八・四、横四〇・三各センチメートルの絵絹画面中央上部に胸前で説法印を結び、二重円相を負い蓮華座上に結跏趺坐する阿弥陀如来像を中尊とし、下方左右に円光を負い蓮台上に直立する観音と地蔵の両菩薩像を配するもので、阿弥陀、観音、地蔵の三尊形式は、中国唐時代以来作例はあるが儀軌に明確な典拠のないめずらしい図像である。あるいは『地蔵菩薩本願経』第一二見聞利益品にある、忉利天(とうりてん)の会座中観音に向って仏陀が、臨終時等における地蔵への帰依の功徳を説くという説話に推定できようか。三尊とも真正面向きの姿に表わされ、ともに淡黄色の肉身をくくる朱線を肥痩のない墨線をもって描き起す表現は的確で破綻がなく、衣には截金(きりかね)を交えた美しい文様が施され、華麗な画趣が展開される。さらに如来の坐する蓮華座も截金とともに繧繝(うんげん)彩色が克明に描出され、全体に傷みや補筆は多いが精緻な美作といえよう。描写や賦彩には古様の温雅さを残しているが、墨線で描き起された三尊の面貌や衣文の処理には写実的な傾向が強調されており、制作年代は鎌倉時代末、一三世紀末から一四世紀に入る頃と考えられる。なお画面上部左右の『往生要集』巻下、大文第八による「極重悪人□無他方便/唯称念仏□得生極楽」(上部欠落)の賛は後筆である。
Ⅴ-31図 絹本著色阿弥陀三尊像(願牛寺蔵)
室町時代の作例では東弘寺の絹本著色聖徳太子六臣連座像が注目される。真宗寺院では、さまざまな形式で聖徳太子像が祀られるが、とくに絵伝は妙安寺本聖徳太子絵伝のような「前生譚、入胎、誕生」から「薨後諸王子五重塔より昇天」までの場面を描く本格的なものから、次第に一六歳の孝養像、あるいは三五歳の勝鬘経講讃像など肝要な事跡をとり出した一幅の掛幅形式へと変化し、とくに室町時代以降盛行する。東弘寺本は太子孝養像を大きく描く真宗特有の遺品であり、縦八三・六、横三八・六各センチメートル、像後に背屛を立て、垂髪美豆良を結い、袍袴に袈裟、横被を着け、柄香炉を持って礼盤上に正面向きに直立する太子を描き、下方左右に短冊形名札をつけた小野妹子(おののいもこ)大臣、蘇我(そが)大臣、日羅(にちら)聖人、百済国師阿佐(あさ)、覚哥(かくか)博士、恵慈(えじ)法師の六臣が左側上部から右側にかけて配されているが、右側の名札は画面の截断によって判読が困難になっている。粗目の絵絹をもちい、厚塗りの下地に金泥文様を多用した彩色は平板、太子像はじめ六臣の姿態もやや稚拙であり、全体に生硬な表現となっているところは、制作が室町時代末頃であることを示している。
真宗特有の仏画では、ほかに東弘寺と願牛寺にそれぞれ絹本著色方便法身尊像があり、東弘寺本は縦八三・八、横三二・二、願牛寺本は縦九〇・二、横三五・六各センチメートル、ともに蓮台上に正面向きに立って来迎印(真宗では摂取不捨印ともいう)を結んだ阿弥陀如来の独尊像で、円光から弥陀の四八願になぞらえた四八本の光芒を放って、光背とするのが特徴である。制作は東弘寺本、願牛寺本ともに室町時代末~近世初めころと考えられる。ほかに東弘寺には江戸時代の制作ながら紺紙金泥善導大師像、法然上人像双幅(各縦六二・六、横二七・七各センチメートル)などもあり、石下地方の中世文化史上、東弘寺、願牛寺など真宗寺院の存在は、大いに注目されなければならない。