[近世の石下]

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空からみた飯沼近辺

 いわゆる元和偃武(えんぶ)以降とくに寛永十六年(一六三九)鎖国制度が完成してからは戦争のない平和な時代が続いた。それぞれの生涯を生きぬいた私たちの祖先も、時には村の鎮守の祭りにエネルギーを注ぎ、平和な時代を謳歌したこともあっただろう。しかし石下町の近世から近代への歴史は、農民の手による川東の湿地帯の開拓と川西の飯沼の干拓、田畑への用水貫通とその維持など、水との調和と闘いの過程であった。農民たちが水を制御し新田を開拓する土木工事に着手する前に克服しなければならない困難な政治的課題があった。それは領主の存在と行政組織そのものだった。土地と水は、幕府と領主の所有だったからである。権力と水への対応、これを除いては石下の近世の歴史を語ることはできない。これを通じて私たちの祖先は自らの生活を守ってきたのである。
 織田信長や豊臣秀吉が覇王として中央で活躍していたころ、石下町は近世大名化しつつあった多賀谷城主六万石、多賀谷重経の藩領だった。その重経も慶長五年(一六〇〇)天下分け目の関が原の戦に西軍に通じたとして、翌年には所領を没収され、追放となる。すでにして中世以来の名族・豊田・小田の両氏滅び、ここにまた多賀谷氏滅ぶ。常総地域の鎌倉・室町時代以来の根生の門閥領主層と家臣たちは武士としての身分を否定され、あるものは故郷を放れて他国を流浪し、あるものは土着して農民や町人となり、進駐してきた新領主層の支配下に、新しい江戸時代の町と村をつくりはじめるのである。
 慶長八年江戸幕府が成立したころ、町域は御領(幕府直轄領)と私領(大名・旗本領)に組み入れられ、総体としては徳川家康の側近で代官頭、伊奈忠次の支配するところとなった。彼は同十三年、飯岡三郎右衛門・吉原八右衛門・新井五郎左衛門・小口孫兵衛・増田大学助・飯島玄蕃・国生二郎右衛門ら、いずれも町域の中世的名主(みょうしゅ)の系譜をひく有力農民に、無税地一町を与えた。有力農民の地位を補強して彼らを中心として新田開発を進めようとしたものである。
 しかし町の東西の低湿地と湖沼地帯の本格的な開拓の画期となったのは一七世紀の元和(一六一五~一六二三)から寛永期(一六二四~一六四三)にかけての幕府による利根・渡良瀬・鬼怒川の大改修工事であり、ついで一八世紀に入ってから八代将軍吉宗による享保改革の新田開発政策だった。この間町域は御領と私領が交錯した支配下にあった。とくに五代将軍綱吉のときに施行された元禄地方直(じかたなお)し以降は御領と私領の入り交じった複雑な入り組支配となる。この極端な分轄支配は、幕府が積極的に新田開発政策を実施した享保改革の頃まではさほど障害とならなかったが、幕府や領主たちが地方の政治に積極的な役割りを果し得なくなった一八世紀の後半からは農民にとって重い足かせとなった。たとえば数人の領主の支配下のある村が、新田開発や用水を確保するための土木工事をする場合、江戸居住の幾人もの領主の承認が必要だったし、新田開発の場合には幕府の許可を必要とした。領主への恐れと、事務手続きの繁雑さは実に目をおおうばかりたった。もはや武士たちがつくりあげた支配体制=幕藩体制そのものが歴史の発展をさまたげる桎梏となりつつあったのである。
 農民たちは村ごとに団結し村をこえた地域連合を組織しながら新たな村おこし運動を展開し、この桎梏を克服してゆく。川西の享保七年(一七二二)にはじまり、同十三年に一応は完成する飯沼の干拓新田計画、川東の寛政元年(一七八九)から文政十二年(一八二九)にかけての江連用水再興運動は、この地域連合に依拠しながらの村おこし運動の大きな成果だった。農民たちは許可するまでよすものかといわんばかりに幕府へ訴願をくり返し、そして認可と同時に地域連合組織の総力をあげて工事を遂行した。それらは幕府の徹底した分轄支配の原則を克服しつつ、自ら育成した地域連合に結集する農民のエネルギーを基底としてはじめて成し遂げられたものであった。またこの農民のエネルギーこそ、幕藩体制を基底からゆさぶり、明治維新をつくり出す原動力となるのである。