徳川氏の関東入国

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北条氏政・氏直父子(後北条氏)が、小田原を本拠として関東八か国の統一を目指していたころ、天正十五年(一五八七)豊臣秀吉により「関東奥羽総無事令」という家康に申付けた関東奥州まで私的な戦争の停戦命令が発せられ、しだいに豊臣政権の天下に包摂されていった。常総地方の諸大名は、佐竹義重や結城晴朝を中心として、後北条氏へ服属するか、あるいは全国的な統一政権となりつつある豊臣政権に属するか、の選択をせまられることになった。
 天正十八年七月、関東に勢力をほこっていた後北条氏は、先の「関東奥羽総無事令」の停戦命令違反によって小田原攻略をうけ滅亡した。常総大名のうちで最初に豊臣方へ参陣したのは結城晴朝である。同年五月二日、下妻城主多賀谷重経、下館城主水谷勝俊らを従えて小田原に入り、秀吉に拝謁している。次いで五月二十五日には佐竹義宣、宇都宮国綱などが参陣している。小田原が落城するとただちに関八州の国割りと奥羽出兵が始まるが、その中で、徳川家康は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国にかえて、後北条氏の支配領域であった伊豆・相模・武蔵・上総と上野・下総の大部分及び下野国の一部、この六か国二四〇万石を与えられた。さらにこの時期に在京賄料として近江・伊勢・駿河・遠江国内で一一万石を与えられた。秀吉が徳川氏を関東に転封させたのは、奥羽平定の第一線の基地として江戸を家康にまかせ、それと同時に旧領東海地方との結びつき断ち切るためであったという。
 常総の諸大名の動向をみると、佐竹氏は豊臣の権威を背景に江戸氏を倒して水戸を手に入れ、領国経営の拠点とした。常総西部や下総では、結城晴朝の跡継ぎに家康の次男で秀吉の養子となっていた秀康が決定し、五万石が所領として与えられた。半独立的な領主だった山川晴重や下館の水谷勝俊も、結城秀康の与力とされた。
 下妻の多賀谷重経は小田原参陣直後に所領を安堵され、結城氏に服属することを命じられたが、これを喜ばず、嫡男の三経を豊田郡・岡田郡の領主として結城氏に仕えさせた。そして自らは下妻城主として独立し、佐竹義宣の弟宣家を養子に迎えて佐竹氏との結びつきを深めていった。
 一方、徳川家康は秀吉の命令で天正十八年(一五九〇)八月、関東転封をするが、それは臨戦体制の下で旧領五か国から迅速な移動が行なわれた。江戸に入った家康にとって江戸城修築、江戸の町割り、家臣団への知行割りは急務であった。新領国への知行割りは、榊原康政を総奉行として、その配下に伊奈忠次・青山忠成・大久保長安・彦坂元正などを実施責任者として、勘定方の役人や代官を総動員して行なわれた。
 知行割りの原則は、直轄地を江戸周辺に置くこと、小知行取りは江戸周辺のせいぜい一夜泊りの地に置き、大身の者は遠方の地域に置くことであったといわれている。家臣団への知行割りは相模・武蔵を中心として行なわれた。上級家臣の配置は後北条氏時代の支城である忍・玉縄・川越・岩槻・鉢形などを拠点として行なわれ、利根川筋などの河川や陸上交通の要衝の地に配置は行なわれた。中下級家臣団旗本の場合は河川筋、街道沿い、支城周辺地域に配置が行なわれ、支城駐屯制を側面から補強するような配置が行なわれ、きわめて軍事的色彩の強い知行割りであった。
 

Ⅰ-1図 代官赴任の図(『徳川幕府県治要略』)