太閤検地の実施

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文禄元年(一五九二)一月、豊臣政権の朝鮮出兵を契機に関東の支配体制はしだいに変化していった。文禄の役(一五九二)・慶長の役(一五九七)と続く朝鮮出兵は諸大名に臨戦体制をうながし、際限なき軍役を賦課した。
 このような時に石高制にもとづき、諸大名やその家臣への軍役賦課や、農民に対する年貢の賦課基準として全国的に実施されつつあったのが太閤検地であった。太閤検地は、天正十年(一五八二)秀吉が明智光秀を倒した山崎の合戦の直後に、山城国で検地を実施したのを始めとして全国に施行され、秀吉が没する慶長三年(一五九八)まで続いた。
 この太閤検地によって、それまでの貫高制は土地の生産高を規準とする石高制に改められ、国郡制を整理した上で、村を単位として石高がうち出され、検地帳が作成されていった。
 常総地方での太閤検地は、天正十八年に常陸国の西部や下総国の一部に実施されたらしい。検地は総奉行石田三成らによって作成された、いわば豊臣系の検地帳と、秀吉の意をうけた家康の命による、代官頭大久保長安らによって作成された、徳川系の検地帳と二系統あった(『茨城県史』近世編)。
 石下町の付近では徳川氏によって文禄四年(一五九五)に結城本郷の検地が実施され、検地帳が現存しているが、当地域にも太閤検地が実施されたと推測されるが、実態は不明である。