関ケ原の戦いと常総の大名の転封

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天正十九年(一五九一)佐竹義宣は朝鮮出兵に五〇〇〇人の軍役を命じられた。これはきわめて過重な軍役であった。下妻の多賀谷重経は結城秀康に属し、肥前国名護屋へ出陣を命ぜられたが、病いと称して出陣しなかったという。また徳川家康は朝鮮渡海をまぬがれて領国の経営に専念することができた。
 慶長三年(一五九八)八月十八日、秀吉は朝鮮出兵軍と愛児秀頼の行く末を案じながら六三歳の生涯をとじた。これを契機に豊臣政権は混乱と崩壊への途をたどることになる。政権の実権は秀吉晩年に設けられた五大老(徳川家康・前田利家・宇喜田秀家・毛利輝元・上杉景勝)の合議政治で決定されていた。そして秀吉、子飼いの部下である五奉行(浅野長政・増田長盛・石田三成・前田玄以・長束正家)が政務を分掌した。
 しかし、政権内部では秀吉時代から潜在していた諸大名の対立が表面化していった。家康はいわゆる文治派と武将派との対立の中で着々と地歩を固めていき、中央の実権を握ったのである。政権の一方の雄は五奉行を中心として文治派・吏僚層の人脈を握る石田三成であり、三成は秀頼守護の遺命を守ろうとする前田利家と結び、政権の采配をふるおうとした。もう一方の雄は家康であった。家康は三成と不和の加藤清正ら秀吉子飼いの武将を味方につけ、みずからも政務総覧の遺命を掲げて政権を握ろうとした。
 慶長四年一月、秀頼が亡父の遺命により伏見の城から大坂城へ移ると、伏見の家康との間に二大勢力を生じることになり、閏三月五大老の一人前田利家が没すると、調停役を失い政界の安定が崩れ、混迷の中で慶長五年には全国の大名をほとんど巻き込んだ、天下分け目の関ケ原の戦いがおこった。
 石田三成方西軍に対し徳川方東軍の勝利に終ると、直ちに西軍三成方に味方した諸大名の改易転封が実施された。全国的知行割りによって改易された大名は八八家、石高にして四一六万一〇八四石、転封を命ぜられた大名は慶長五年に三七家、翌六年に四〇家、計七七家におよんでいる(藤野保『新訂幕藩体制史の研究』)。このような厳しい改易・転封策が展開されるなかで徳川一門・譜代大名の取立て、戦功者への加増・転封が行なわれる一方で、豊臣秀頼は摂津・河内・和泉の六五万石の一大名に落とされた。家康は七〇〇万石に及ぶ徳川領国をつくりあげたのである。
 この間、常総地方の大名配置も一変した。下館の水谷勝重は領地の二万五〇〇〇石を安堵されたが、下妻領六万石の多賀谷重経と、山川領二万石の山川朝信は改易となった。これとは反対に慶長五年(一六〇〇)二月、松平(藤井)信一は下総布川五〇〇〇石より三万石を加増されて土浦三万五〇〇〇石となり、松平(松井)康重も武蔵騎西二万石から常陸笠間三万石へ、下総古河三万石の小笠原秀政の後へは、慶長七年に松平(戸田)康長二万石が入封した。このように徳川一門・有力譜代大名が進出してくるのである。
 さらに佐竹氏をみると、慶長七年に佐竹義宣は水戸での五四万五〇〇〇石から出羽国秋田・仙北両所、秋田・山本・河辺・山乏・平鹿・雄勝六郡の二〇万五八〇〇石余の減封で転封となり、翌慶長八年には秋田郡久保田に秋田城を築き秋田佐竹藩の基礎を固めた。この佐竹氏旧領の水戸には家康の第五子武田信吉が一五万石で入る。下総佐倉四万石からの一一万石の加増であった。信吉は病弱であったため慶長八年九月に二〇歳で水戸で没してしまうが、その没後二〇万石の水戸城主になったのは家康の第一〇子長福丸、のちの紀伊藩主頼宣である。
 結城氏の場合をみると、結城秀康は結城一〇万一〇〇〇石から慶長六年に越前北庄六七万石へと加増、転封となった。
 こうして徳川一門や有力譜代大名が加増・転封されるのと反対に、多賀谷氏や山川氏など中世以来の旧族大名が改易され、結城や下妻の所領は徳川氏の直轄領として江戸を拠点とする関東領国の一環に組み込まれていった。さらに、常総地方は背後に利根川を背おい、江戸幕府の本拠地江戸を守護するための、東北外様に対する北の備えとなった(『茨城県史』近世編)。
 

Ⅰ-2図 多賀谷城跡(下妻市)