多賀谷氏の滅亡

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石下地域を支配していた多賀谷重経が改易されたことは前にも述べたが、その一族のうち結城秀康に随行して越前へ去った者たちもいる。秀康は結城より越前北庄六七万石へ転封になると、慶長六年(一六〇一)養父の晴朝をはじめ家臣の多賀谷三経、多賀谷村広、山川朝貞、小田氏治、客分の江戸重通らを伴って越前へ赴いた。
 多賀谷三経は重臣として越前柿ケ原で三万二〇〇〇石を給され、また、村広は二五〇〇石を宛行なわれた。養子の宣家は下妻に留っていたが、慶長七年、実兄の佐竹義宣が出羽国秋田へ転封になったのでそれに従って行き、檜山城一万石を与えられた。重経の弟重康とその子の左門、一族源左衛門は、結城から独立して下館四万七〇〇〇石を与えられた水谷勝俊に召抱えられた。
 しかし、多賀谷重経は、武蔵国府中に隠れたまま降伏を申し出なかったため、慶長六年(一六〇一)下妻領六万石を没収の上追放処分となった。その後慶長八年ひそかに下妻へ帰ったが榊原康政に追われ、秋田、江戸、京都等を転々とした末、元和四年(一六一八)近江国彦根で客死した(『下妻市史』)。
 多賀谷領六万石の地はそのまま幕府代官頭(関東郡代)伊奈備前守忠次の支配する幕府直轄領(天領・御料)となった。その後、慶長十一年には家康の第一一子頼房が、五万石で下妻城主になるが、当時はまだ鶴千代とよばれた三歳の幼児であった。そして、頼房はわずか三年あまりで水戸へ転じ、二五万石の水戸藩の祖となったのである。
 結城をはじめ古河や下館など周辺地域は著しい領主変遷をくり返しながら徳川一門・譜代大名領、もしくは幕府直轄領(天領)が形成されるなど、関東領国の一環として位置付けられていた。そうした中で水戸・笠間・下館以外の城郭は廃棄された。結城・下妻・山川の各城も廃止されたのである。
 慶長十六年(一六一一)、亥の正月二十日、下妻地内の太田村「ふんこ」・若村「主計」・川尻村「新右衛門」など下妻領九か村の百姓は、土豪的な有力農民である「吉右衛門」の非法を「御奉行所様」に訴え出た。この訴状は最初の部分が欠けているが、四か条中二か条は下妻の城についての訴えである。これによれば、下妻の城の多賀谷の兵具、弓、鑓、鉄砲、弾薬、舟板、材木、畳など、そのほとんどを吉右衛門が自分の在所に運んでしまったこと、下妻城内の多賀谷氏の隠居の家や、城廻りの侍たちの家も吉右衛門が壊してしまったこと、などである。下妻の城が荒れはてていく様子がよく示されている(『下妻市史』)。
 

Ⅰ-3図 下妻百姓等連署状(下妻市 古沢淳氏蔵)

 こうして常総の地は関ケ原の戦いを契機に旧族大名の一掃と徳川一門・譜代大名領の形成や古河、下総、結城のさらなる重要性など大きく変化していくのである。石下の地域にもそうした時代の波がおしよせてくるのであった。