古河藩・土井氏

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老中土井利勝の支配する古河藩領となっていたことを示す村々には、本石下村、新石下村、鴻野山村などがある。その子の利房の領地は寛文四年(一六六四)「寛文朱印留」の領地目録によると、本石下村・新石下村・大房村・東野原村・収納谷村・曲田村・古間木村・鴻野山村などがあった。
 また、孫の土井利益の領地は、同じく寛文四年には、一万石のうち原宿村・本石下村・法木田村・栗山村などがその支配下にあった。
 土井利勝は老中として幕閣に権勢をほこった人物である。古河へは寛永十年(一六三三)四月に一六万石で入封するが、五代利益が天和元年(一六八一)志摩国鳥羽へ転封するまで四八年間古河の地を支配した。その後土井氏は八代利里の時に、宝暦十二年(一七六二)肥前国唐津より再び入封し、一四代利与まで一〇九年間支配するので、土井氏は古河にあわせて一五七年間も在城していたといえる。
 土井利勝が入封するまでの古河城主をみると、天正十八年(一五九〇)小笠原秀政がはじめて信濃国松本より三万石で入封し、慶長七年(一六〇二)には松平(戸田)康長が二万石で、同十七年に小笠原信之が三万石で入る。元和五年(一六一九)には奥平忠昌が一一万石で入り、元和八年には永井直勝が七万二〇〇〇石で入っている。そして、寛永十年土井利勝が一六万石で入り、天和元年になると五代利益が鳥羽転封になり堀田正俊が一三万石で、貞享二年(一六八五)に松平(藤井)信之が九万石で、元禄七年(一六九四)には松平(大河内)信輝が六万五〇〇〇石で入封した。正徳二年(一七一二)には本多忠良五万石、宝暦九年(一七五九)松平(松井)康福五万石、宝暦十二年土井利里七万石と続くのである。
 歴代の城主をみると、土井利勝や堀田正俊は老中・大老を務めた幕閣の中枢に位置する者たちであり、他の者をみても、老中、京都所司代、奏者番など幕府の要職にあった者たちばかりである。これは古河の地がはやくから関東の軍事上の拠点であったことや、徳川の聖地である日光への道路上の要地であったことなどから重要視されていた関東領国の一環であったといえるからである。
 土井利勝の四男利房(二代利隆の弟)は、奏者番、若年寄を務め、寛文四年(一六六四)に下野国足利郡、常陸国筑波郡、下総国豊田郡・岡田郡のうちで二万石の領地目録を与えられた。利房は後に延宝七年(一六七九)には老中に昇格し、下総国豊田・岡田郡、常陸国河内郡、下野国都賀郡において一万五〇〇〇石を加増され、四万石を領している。さらに天和二年(一六八二)には越前大野・丹羽・足羽三郡のうちに領地を移され大野城主となった。
 土井利益は利勝の孫にあたり、万治元年(一六五八)父三代利重の領地の、常陸国河内郡、下総国豊田郡・岡田郡・結城郡のうちで一万石を与えられ、利房と同様に寛文四年に領地の朱印状を与えられた。利益は延宝三年にはあらたに七万石を与えられ、五代古河城主となった。
 このように利房・利益の領地をみると広義の古河藩領とみることができる。また、土井利勝が古河へ入封する以前に、永井直勝が在城していたが、新石下村では慶長十二年(一六〇七)に「永井信濃守」が知行していたと伝えている(「新石下村沿革誌」)。この永井信濃守は永井尚政のことであるとすれば、この記事はその父の直勝が元和八年(一六二二)に古河へ七万二〇〇〇石で入封していることから考えて、新石下村はおそらく元和期以降古河藩領であったとみられる。そうすると、その他の土井氏の古河藩領と伝える本石下村をはじめとする村々も、寛永期以前から古河藩領になっていた可能性が強いといえる。