村々の領主変遷をあらわしたⅠ-1表によると、豊田村は貞享元年(一六八四)から元禄十年(一六九七)まで駿河田中藩領であった。この藩主太田資直は、寛永期の家光政権をささえた六人衆(後の若年寄)の一人であった、太田資宗の孫にあたる。
太田資直は貞享元年(一六八四)六月、父資次の遺領を継ぎ、駿河国志太・益津郡、遠江国榛原・城東郡、下総国豊田・岡田郡、常陸国河内・新治郡のうちで五万石を領し、駿河国益津郡田中城を与えられた。領地の五万石は、四万石がその城領に、一万石は常陸・下総のうちにあった。
豊田村はこの太田資直田中藩領を伝えるが、資直の父資次は、大坂城代として五万二〇〇〇石のうち、関東に下総国豊田郡、常総国河内郡・新治郡を与えられており、その遺領を資直が継いでいるのだから、資次の時代に豊田郡の豊田村ほかの村々も、太田氏の所領となっていたかも知れない。
資直はその後、奏者番から若年寄へと進み、元禄十二年六月に常陸・下総国の領地を駿河・遠江国内へと移され、関東を去っている。