大久保忠増

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本石下村は天和三年(一六八三)に大名大久保忠増の領地になっていたという。大久保忠増は慶長十九年(一六一四)に改易された小田原の大久保忠隣の血をひき、明暦二年(一六五六)、忠朝の子として生まれている。寛文八年(一六六八)に初めて家綱に拝謁し、天和元年に奏者番となり、天和三年には下総国豊田郡、常陸国筑波郡の内で一万石を与えられた。
 おそらく天和三年のこの時に、本石下村ほかが忠増の領地となったものと思われる。
 その後、貞享二年(一六八五)七月、寺社奉行を兼ね、同四年には若年寄に進んだ。元禄元年(一六八八)八月には職を辞し所領の一万石を返上するが、元禄十一年十月に一一万三一〇〇石の小田原藩主となっている。さらに宝永二年(一七〇五)には老中を務め、正徳三年(一七一三)七月五八歳で没した。忠増もやはり有力譜代大名として、石下の地を領したものとみえる。